岩すづ

家を出て、もう30年経つ。中学校2年からの時だから。
今日、末っ子がインフルエンザにかかった。子供が熱を出すと、いつも思い出すことがある。

私は両親と一緒に住んでいるとき、「勉強しなさい」「早くしなさい」「よその子はもっとしっかりしてる」と、いつも両親に叱られてばかりだったから、中学2年生で米さんに声をかけられて、家を出る時は、さびしいけど、不安だけど、開放感もあった。
うるさい両親から開放される期待感が、不安の反対側に共存していた。
しかし、両親がいないことがどれだけ大変な事なのかと気づくのには、結局時間はたいしてかからなかった。
寮生活を始めて1ヶ月程度の時だった。
高熱を出し、今でいう、きっと、インフルエンザだった。
でも誰も病院に連れて行ってくれるわけじゃない。寮は昼食がない。そのかわり、寮母さんが作ってくれる弁当がある。
けど、39度の熱があるとき、結局、甘やかされて育った私には、弁当は食べれない。
だから自分で這って病院へ行った。保険証が必要だと言う事も分かっていなかった。サイフも忘れた。
東京都足立区にある、友愛病院。
先生も看護婦さんも良くしてくれた。けれど、最初はみんな怪訝な顔をして私を見たものだ。
事情を説明しながらの診察。後でお金を持ってくると言う事で、診察して、薬を出してくれた。
今だったら会計監査上、許されないことだと思う。
自分ひとりで、歩いて寮に帰る。行きも、帰りも、這っている気分だ。フラフラしながら寮に帰り、一目散にパイプベッドの2段目に登る。
薬を飲んで、布団をかぶり、目を閉じる。お腹が空いているような感じがするが、誰も、何もしてくれない。
当時はコンビニなんてなかった。
粗末なアパートの2部屋を借りただけの寮は、中学生の子供にはまるで牢獄のように感じた。
夕方米さんが部屋に来る。米さんの右手は、熱を測るには天才的な感覚の持ち主だ。それは、練習嫌いの、仮病を見抜く為。
米さんは私のおでこをさわり、一発で「寝とけっ」と結論付ける。
「先生、お腹すいたんです」と声を絞り出す。
すると米さんは、寮生の夕食を、私の先輩にお盆に乗せて持っていくように指示をした。
しかし食べられない。選手の食事は凄い。脂とその量といったら、前出のとおり、疲れた選手には到底食べられないものだったのだ。
親と住んでいる時は、私が風邪をひくと、近所にある「岩すづ」というお蕎麦屋さんから、お袋が天ぷらそばを出前でとってくれた。具合が悪いながらも、そのお蕎麦が、この上ない旨さだった。
熱にうなされながら、まるでお袋が近くにいるような錯覚のにとらわれ、「お蕎麦〜お蕎麦〜」とお袋を呼んだ。
きっと心配していたお袋は、350キロ離れた所にいた。
目を覚まし、1人っきりなことに気づくと、中学2年生の私は、つくづく母親のありがたみを知った。
メロンや、イチゴ、ヨーグルト、プリン・・・・。
お袋は、私が病気になると、「食べられるものならなんでもいいから」と言い、様々な物を用意してくれた。
しかし、寮に入れば、すべてが、何も存在しない。誰も何もしてはくれない。自分しかいない、自分がやるしかなかった。なんでも。
よく隠れて泣いたものだ。お袋に会いたくて泣いた。

まだ末っ子は4才。この子が高校になっても、私はそんな思いをさせたくないと思ってしまう。
時に人間の成長には、色んな経験や苦労を必要とするのはわかる。けれど、私が経験したような辛くさびしい思いはさせられん。そら、あかん。

・・・・・・、でも、必要なのかも。断腸の思いで。

だから会社の帰りにちょっと値段が高めのプリンとか、末っ子の好きなチョコレートとか、一杯買ってきました。
具合が悪い時は、食べたいと思えるものなら、何でも用意するお袋を、いつも思い出すんです。

けどそんな贅沢って妻に叱られるから、自分のサイフからお金を出して買ったんよ。
今日も経費かかったなあ〜