京都大学の聖職者へ

京都大学カンニング問題が、物凄い勢いで報道されている。
きっと、他に話題がなかったんだろう。いつも思うのだが、マスコミってなぜあんなに活字暴力を振るう集団なんだろうと思う。日本の国民は、カンニングが悪い事なんかわかっている。けど、「何故悪いのか」という倫理を司る思考のプロセスとなると話は別だ。多分、「ずるいから」とか、「いけないことだから」という程度の枠を超えない考えも、半数はあると思う。
一言ではむずかしいが、「平等性」とか、「正義」の観点からカンニングの悪性を考えるべきなのだろう。さらに今回のカンニングが非常に手の込んだ細工だった事もあるだろうし、このブログのように、オンラインを使った手法であったことも、マスコミにはたまらない恰好のネタなんだろう。

しかし、京都大学の教師、教授、あるいは大学関係者の警察への「被害届」という手法は、教育者の手法として適正なのかと大いに疑問だ。カンニングした生徒を、おおらかな処分で合格にしてあげるべきだとは毛頭思っていない。それはできない。してはいけない。しかし、今回の受験生は、そもそも自信の心の弱さからの失敗である。教育に携わる教師という職は、いわば「聖職」だ。たとえばアマチュアスポーツのコーチでも同じだ。ほとんどは学生であろう選手達は、多感な時代を生きるまだ子供だ。スポーツの記録を伸ばすことだけに集中し、競技が強くなればそれでいいなどという考えのコーチはいないと思う。子供は失敗をするし、間違いを犯す生き物だ。大人だってそうじゃないか。むしろ大人の間違いの方が、よっぽど深刻。しかし、学生のカンニングでなぜ「被害届け」なのか。なぜ「逮捕」なのか。
アホじゃないかって思う。カンニングという倫理に欠けた行いを、聖職者である教師は、これからしっかりと時間をかけて指導するべきであって、警察事件にすることじゃない。そもそも、入学試験の合否や監督責任は、警察管轄のことなのか?なぜ警察に被害を出すのか。少なくとも、カンニングをした本人を特定した時点で、「被害届け」を取り下げるべきではないだろうか。大学は自治を前提とした組織であり、学生の学問を向上させる目的以外に、これからの日本を支える、時代を担う人間を育てるべき組織ではないか。警察組織にまかせることといえば、そもそも「法律に違反する行為」ではないだろうか。カンニングを裁く法律など、日本には存在しないし、カンニングは法律で裁く事ではないはずだ。これは、聖職者の教育の範疇で行う「教育指導」の範疇ではないだろうか。
今回の学生が不憫でならない。どうせ芸能スキャンダルでも新たに起きれば、ほとんどのマスメディアは忘れ去る程度のことなのに、マスコミはこの学生の今後について、加熱報道した責任など、毛頭とるつもりもない。
私もマスコミに何も期待などしないが、京都大学には、やってほしい事がある。それは、この学生に対し、被害届けを取り下げ、この学生がまた未来にむけて再出発できる、準備、配慮する事だ。それが教育者の道ではないだろうか。だいたい、カンニングを『偽計業務妨害罪』なんていう罪で逮捕する警察もどうなんですか?と思う。なんだか、すご〜いスピードが出やすい広々した見通しの良い道路で、隠れてネズミ捕りやる、ほとんどが網にかかる・・・、以上に違和感を感じる。(決してスピード違反を推奨するものではございません。すみません。(汗))

私はカンニングした学生に言いたい。
『そらあかんで!お前が悪い!自分が悪いんやから、徹底的に恥をかくんや!けどな、もいっぺん出直せや!自分の失敗に負けたらアカン!ちゃんと一年がんばって、今度は正々堂々と試験受けたれ!で、絶対合格するんや!せなあかん!しかも、ただの合格やないで!トップ合格や!一番で合格したれ!それがおまえの償いや〜〜!ぼけ〜〜!やったらんか〜〜〜〜〜!!!!!』