愛とは与え続けるのみ存在する

「愛とは 与えるのみに 存在する」
米さんは恋愛相談する者に、必ずこの言葉を伝え、恋する若者の迷いについて、その道を示してくれた。
恋は盲目という言葉があるが、若い頃の恋心は、その恋の発展と共に、相手に求める度合いが増加してしまうことがある。
「僕がこれほど君を愛しているのだから、君の気持ちが知りたい・・」
「私だって、こんなにあなたに尽くしているのだから、あなたももっと私に返して」
「僕を見て 私を見て」
見返りを期待した瞬間から、それは「愛」ではない。愛するという事は、ただ与える事であり、見返りを期待して与えることではない。
米さんはそう私に教えてくれた。
夫婦の関係でも、親子でも同じ事が言えると思う。「俺がこんなにがんばっているのに、お前は何もやってくれない」とか、「なぜ私ばっかりやらなきゃならないのよ、あなただって手伝うべきじゃない」とか。きっと日常にはこういった会話があふれている事だろう。私だって、米さんにいつも「与え続ける事」と言って教わってきたが、日常では、ふと気がつくと、妻に求める思考に陥っていることもある。
しかし、米さんの教えを思い出し、やっぱりいつもこの原点に帰ることが出来る。そうすると、素直に矢印を自分に向けることができ、人にやさしくなれる。思いやれるようになるんだ。
教育や子育ても同じだ。米さんは、子供には財産を残すのではなく、教育と文化を残せと言った。教育を行う過程で、教える側が、「俺がこれだけ一生懸命指導しているんだから、おまえももっと結果で返せ」というような思考を持つことは、米さんのもっとも嫌う事。教育者は、その子供の将来を想像し、イメージして、子供に合った指導を創造し、無償に与え続け、支援し、個性を引き出し、厳しく、暖かく見守る・・・。それを物凄くマジで実践した人だった。これ以上の指導者に会ったことないなあ。
また、自分の生徒であろうと、よそのチームの生徒であろうと、まったくそこに垣根を持たなかった。米さんは、当時の水泳界で、その存在がだんだん大きくなっていたから、よそのチームの選手達がよく近づいてきた。我々チーム「米ちゃんず」の選手達が、周りから見て異質に見え、のびのびとしている姿も、周りの選手達になんらかの影響を与えたと思うが、そうした影響によって集まってくる他チームの選手に、私達とまったく同じように接した。だから相談ごとも多かったし、うちのチームに入れてくれという話も多くて、結局、10人以上の他チーム出身の選手を育てることにもなっていた。大学生を数ヶ月の短期間、集中的に指導する事もあったし、青春時代の悩みを聞き、恋の相談もしょっちゅうだった。
米さんの全身から溢れている「やさしさ」のオーラのようなものは、きっと「自分達に何も求められていない」ことと、「ただ、ただ、与え続けてくれる」という無償の物に起因していたのかもしれないと思う。
米さんは、会社の社員の女性にも、セクハラみたいな言葉をかけていたけど、それが全然いやらしくなく、逆に女性達は大喜びだった。もし他の人が同じ事言ったりしたら、間違いなく訴訟問題だろう。むしろ米さんに声をかけられることで、みんな気持ちが綺麗になったのだと思う。

私は43歳になった。近頃やっと、そんな米さんの心の境地に、少しだけ入ってこれた気がしている。
「無償の愛」を、論理ではなく、体と本能で実践し、そうして生きられる人間の世界は、本当に多くの感性が広がっているのがわかる。

なかなか米さんには追いつけないけど、セクハラはプロになった。語弊があるかもしれないけど、上手なセクハラはお互いに楽しい。たぶん、そういうのってセクハラとは言わなくなっちゃうのかもしれない。うちの社員はみんな、私が妻を好きで好きでしょうがないって知っているから、みんな安心してるのかなあ。俺も男なんだから、危ない感じ、出さなきゃなあ〜。
危ない感じ出すのって、経費はかかるのかなあ〜