米さん

米さんと一緒に運営してきた豊橋のスイミングは、近隣の大手企業に集客で勝てなかった。
会費をどこよりも下げて、スクールの指導をどこよりも熱心に行ったが、それでも設備や駐車場がないことも手伝って、なかなか利益が出なかった。
米さんと私と正一(粂川正一さん)は、毎月まともに給料などなかったが、私はそれでも全然苦じゃなかった。米さんと仕事して、毎日米川節を聴いて、あのびっしり、真っ黒に生えた、モジャモジャの髭が見れればそれで良かった。
それでも時々お金が用意できると、米さんには家族があったし子供もいたのに、自分の給料を削って私に給料をくれた。そしていつも私達2人が、お金があるかどうか、気にかけてくれた。

「おう!おまえら金ちゃんとあるか?」

そう言ってプールに入ってくる。私と正一は、別にお金がなくっても、「はいっ!めちゃめちゃありますよ!」と言って、笑いとばす。そうすると米さんは決まって、
「まあな〜。」といって笑った。

お金はなかったけど、あの豊橋のプールにはかけがえのないものがあった。きっともう、あんな時間は一生経験できないだろう。だって米さんがもういないから。

米さんと自分の子供の水泳について真剣に話し合う選手の父兄。
多感な青春の時間、悩みを米さんに相談する選手クラスの子供達。
真剣に生きる事を、真面目を不真面目にやるくらいにそぉっと教えてくれる米さん。

スクールの指導方法には常に貪欲で、聖職者の姿を見せる米さん。
私に訪れる生きる上での壁を、様々な例えに置き換えて、わかりやすく、そして楽しく諭してくれる米さん。
時々入会者があって、入会金が入ると、「おう!焼肉いくぞっ!」と、思う存分食べさせてくれる米さん。

大雑把に見えて、スイミングのノウハウ提供の話が来ると、事業計画書の作成方法を、細かく指導してくれる。数字びっしりの、経理科目びっしりの、精度の高い計画書を、徹夜で作らされたが、私は物凄く今、仕事に役立っている。実は知性派の米さん。

午後3時になると、インスタントラーメンを2個、麺固め、味濃い目で私に作らせて、2分くらいでとても旨そうに平らげる米さん。

羊羹が大好きで、時々買ってこさせ、長い羊羹を頭から平らげる、実はお酒の飲めない、甘党な米さん。

落雁(らくがん)が好きだからって、いい歳して、奥様の実家の仏壇のお供え物の落雁を、子供と一緒に食べて、おばあちゃんに叱られる米さん。

信じられないくらいに、すべてのシーンが、鮮明に脳裏にこびり付いている。

その米さんから、断腸の思いで離れ、別の道を歩き始め、3ヶ月くらい経ったある日、米さんから電話が入った。

「おう!元気しとるか??」といつもの声。

「はい!いつもギリギリで生きてますがな!」とだいたいそんな風に答えると、米さんは決まって、「まあなぁ〜」と言って笑う。

ところがその日は違った。「生きるだけええやなか〜」と、ちょっと違う返事だった。「どうしたんすか?何かあったんすか?」と聞くと、「おう。ちょっとな〜」と、明らかにいつもと違うニュアンスだった。いつも何かあっても、私に細かい話なんてしない。全部自分で受けて、全部自分で解決する人だったから。

「この前医者に行ったんだよな!そしたら、癌だっていうから、嘘付けっ!っていったんや。」

たしかそんな言葉だった気がする。まだ奥様以外、誰にも言ってないと。

正一にも、ボブにも、教え子達には誰にも言っていないと。

その言葉以降、私は米さんとどんな会話をしたのか、まったく覚えていない。実は頭の中が真っ白で、物凄いショックで、どうしたらいいのかわからなくなったからだ。ひとつよく覚えているのは、それなら私が豊橋に戻りましょうか?と聞いたときの事。米さんは、「あほかおまえ〜。」と言って、来る必要はないと言った。3年はサラリーマン続けろっていったやろうが。と。でも、本当はぜったいに戻ってきてほしかったに違いない。米さんは私とどれだけ長い付き合いをしてきても、ずっと私に対して「先生」であり続けた。大人になった私だから、時々ほんの少し見える、米さんの本音と弱さを、とうとう最後まで結局、自分からは見せなかった。



豊橋記念総合病院に入院し、手術の日が来た。米さんの弟の、正則さんが熊本から駆けつけ、私と奥様がそばにいた。

変に励ますのは、私らしくないから、「手術って痛くないんすかねえ〜」なんて、馬鹿な子供のフリして見せたりして、動揺を隠したが、米さんも、「あほかおまえ〜」なんて言いながら、なんともないフリしてた。

看護婦さんが病室に来て、「さあ〜よねかわさ〜ん、行きましょうか〜」と言っても、なんでもないフリしている。本当は教え子の私なんかがいないほうが良かったのかもしれないけど、いついつ手術だって言って、米さんが電話で教えてくれるんだから。

病院の廊下とエレベーターをベッドに寝た米さんと共に歩く。正則さんも奥様も私も、自然な言葉で励まそうと、みんなが少しだけ声をかける。

そして、手術室に入るときが来た。

看護婦さんが、手術室に向けて入ろうとするその時、米さんが私の顔を見た。無言だが呼んでいる。

近づくと、「頼むぞ」って言った。


「何いってんすか!だいじょうぶっすよ!勝負しましょうよ!」って言うのが精一杯だった。

私の後、奥様が米さんの手を取り、「がんばってね」と、やさしい声をかけていた。

私は米さんが手術室のドアから消えるのを確認して、そして大泣きした。


正則さんと、奥様と、3人で。


あふれる涙。

止まらない涙。

悲しいってわけじゃない。

もちろん悲しいけど、悔しいのと、やるせないのとで、いつまでも涙が止まらない。


手術なんて、なんて似合わないんだろうって思って。


こんなに美しい人が、何故こんな目にあうんだろうって。


一番いつまでも生きていなきゃいけない人が、なぜって。


16時間に及ぶ手術だった。

術後、奥様に電話で容態や結果を聞いた。

奥様は、私に心配かけないように、言葉を選びながら教えてくれた。正則さんも同じように、私を励ますみたいに、言葉を選んで話してくれた。

けれど、私だってもう大人だった。

なんとなく、これからの米さんの容態がどうなっていくか、わかってきていた。
そして、神様に事あるごとにお願いした。

空を見て、(かみさま!よねさんに奇跡をください)と、心の中で大声で叫んだ。何度も何度も。

退院後も米さんは何度か容態が思わしくなく、入院した。
そして豊橋を離れ、引越しを正一に手伝ってもらって、奥様の実家のある桐生に移り住んだ。
空気が綺麗で、美しい自然の町。
米さんと、奥様の出会いの思い出の町。

遠くなってしまったから、3ヶ月に一度くらいのペースで、米さんに会いに行く。そうすると、「おまえはいつも絶妙のタイミングで来よるな〜」と言って。嬉しそうに笑った。

そばにはいつも奥様がいて、教え子達が来るたびに、畑で取れたとても新鮮なきゅうりを塩もみして、出してくれた。食べたことのないほどに新鮮な味と、久しぶりの米さんの顔、声、話に、私は釘づけになった。病気の具合は、聞かなくても米さんが自分から全部教えてくれた。米さん自身がすべてを知っていたのかはわからないけど、きっと知っていたに決まっている。

それでも、そういうのを出さない人。

少しづつ痩せていく。会うたびに。逆に太っていく私が、「いいっすね〜痩せられて〜」なんて悪い冗談を言うと、「そうなんだよ〜病気もええもんや」なんてブラックに返す米さん。だんだん病気のことは、お互いにあまり深く突っ込んで話さなくなった。

何度か奥様から「危ないかもしれない」と電話をもらった。

3年辞めないと約束したサラリーマンの道だったが、何度も早退したり、休暇を取って、桐生に向かった。そんな時は、会社なんていつでも辞めたっていいなんて、若気の至りで思っていた。

6月16日にあっちへ逝った。

何度も会いにいっていたのに、一番米さんと一緒にいたのに、私は間に合わなかった。

途中御殿場で、正一に「いいか!米さんを殺すんじゃねえぞ!」って、つい殺気立って言ってしまった私に、本当のことが言えなくて、教え子の先輩に電話してもらった正一。


その電話を受けて、私は東名高速道路の路肩に車を止めた。


間に合わなかった。手が振るえ、涙で前が見えない。

妻に運転を変ってもらいまた走り出す。

左に見える、高速道路の灰色の防音パネルを、ボーっと眺めながら、止まらない涙を、ただだらしなく出しっぱなしにして、車は走り続けた。


なぜ・・・。なんでよりによって米さんが・・・・。


そう思うと茫然自失になった。

でも、多くの教え子達と、奥様と子供達、そして正則さんに見守られて、米さんは最後に、
「それではみなさん・・・さようなら〜」
と言って・・・・、そして息をするのをやめた。

米さんはやっぱり最後まで、最高の指導者だった。


私は米さんを思い出し、時々涙することもあるけど、最後の言葉を思い出すと、ふふっと笑ってしまう。

でもなつかしさはあまりない。だって、毎日何回も思い出すから。
思い出すたび、「あほかおまえ〜」って声が聞こえてくるから。