私の卒業

一見遠回りのように見えることもあるかもしれないが、この道のりが私の人生にとって、最短距離だったのだ・・・・・。



いつもそう思っている。

けれど時々迷う気持ちになることがある。
それは、過去の自分がとった、ある選択を思い出した時だ・・・・・。



愛知県豊橋市のBBスイミングスクールは、米さんが勝負に出たビジネスであり、私たちがもう一度、夢の続きに向かって走り出した場所だった。

私は東京の二子玉川にいた。本当はすぐにでも合流したいと思っていたのだが、私にはやり残した事と、別れなければならない人がいた。
それらをすべて清算し、やり残したことをすべて結論付けて、いよいよ身軽になった私は、数年送れて東京の二子玉川から豊橋に合流した。
何度か書いてきたが、BBスイミングスクールの経営は苦しかった。近隣には大資本巨大企業のスポーツクラブが立ち並び、半径3キロ圏内に、4店舗がひしめき合い、顧客を食いつぶしていた中、300人程度の会員収入で、電気が止められ、重油を止められ、通常は止まる事がない、ライフラインの水道まで止まったBB。それでも私の合流後、しょういちと2人で手作りで作ったチラシを、輪転機で印刷して、朝から時間を見つけてはビラ配りに廻った成果が現れ、会員は一時300人から580人くらいにまで伸びた。
よそのクラブから移籍してくる会員さんはほとんどいなかった。明らかに初めてプールに通うといった成人の方もいたし、幼児クラス、小学生の会員が増加。指導力に定評があった我がBBは、口コミで広がることも多く、一時は波に乗れたかと思えた。




しかし結果、1年後また会員の数は減少していった。
給料の上がらない体制に嫌気が差したのか、若い社員が辞めていった。
私もしょういちも、給料はなかったが、米さんの水泳談義を聞きながら、毎日子供を指導して、選手クラスを指導する仕事は、かけがえのないものだったから、苦にはならなかった。
しかしそれは、もしかしたら私たちのマスターベーションだったのかもしれないと思えてしまうこともある。そして、あの時それからしばらくして、私はBBから去るという選択をしたのだ。その後数ヶ月でしょういちもBBを去った。
どうにもならなかった。
米さんと選手たちを視ながら働く時間は、私たちにとっては最高の時間だったが、お金がないと言う事が、どんどん私としょういちの生活や立場を弱くしていき、世間の目は冷たくなり、立場を危うくしていった。両親から目を覚ませと毎日かかってくる電話に苦しんだ。
同世代の仲間たちはどんどん出世し、家庭を持ち、子供を持った。
あまりにも遅れている自分たちの姿に、若く、まだしょせん幼かった私たちは、どんどん追い込まれていった。

私たちは自分たち2人の給料や、給料がなくても少しでも持っていかねばならない金庫のお金が、そのお金が米さんを苦しめている結果につながっているのではないかと思っていった。
米さんを苦しめる原因が、まさかの自分たちではないかという思いに囚われ、BBの経営を圧迫する原因も自分たちではないかという、見えない罪悪感に完全に私は囚われた。



そして米さんだけになったBB。



どうにもならなかった。このままではいけない。リセットしなければならない・・・その思いが私の心を占めていた。

それからしばらくして、米さんは病に侵された。



米さんが入院にした、豊橋総合病院に何度も通った。その間もかろうじて、アルバイトでBBは運営していたようだったが、私は顔を出せなかった。
しばらくしてBBスイミングスクールは終わった。
後に、閉鎖されて、鍵を変えられたプールの玄関に、夜、しょういちが出かけていった。きっと名残惜しい気持ちがそうさせたのだろう。そしてそこには、古い会員様が書き残したのであろう、一通の手紙が張られていた。


【こんな終わり方でとても悲しいです。ひとこと言ってくれたらよかったのに。お世話になりました。とても感謝しています。】


しょういちから聞かされたその手紙の内容を、私は病に侵された米さんには言えなかった。
そして私も、遠く離れた所から、何度も何度も、閉鎖されたBBスイミングスクールに夜中に出かけ、誰もいない、水のなくなったプールを外から眺めた。
あの頃のプールに響き渡る子供たちの声が聞こえ、明るい日曜日の幼児クラスの、おしっこを漏らす2歳児の姿が思い浮かび、夜の選手クラスで声を張り上げるしょういちの声が、まるで走馬灯のように目に浮かんだ。貧乏だったけど、活きていたプールは、もう完全に消え失せていた。


こうして米さんと私としょういちの夢の続きは終わった。
今でもそのことを思い出さない日はない。一日たりとも忘れたことはない。一日に何度も思い出す。そして、ふと、あれでよかったのだろうか・・・・・と、後悔の念が襲ってくる。
BBが同じ倒れる運命だったのなら、倒れるまでなぜ一緒に居なかったのか。いや、一緒にがんばっていれば、BBは今でもあそこで息衝いているかもしれないではないか・・・・・。米さんも病に侵されることもなかったかもしれない・・・・・。



もしも・・・・・という、存在しない事実をあえて言うならば、もしもあの時、ずっとBBで共に米さんと過ごしていたら・・・・・。



私には信じる力が足りなかったのではないか。
今は500人に満たない会員しかいないスイミングだが、信じて精一杯やっていたら、1000人に伸ばせたかもしれない。決して豊かな生活ではなくとも、自分たちの城を守れたかもしれない。
信じて突き進む事が出来なかった。それが、そんな私が米さんを死なせてしまったのではないだろうか・・・・・。結局、何をやっても中途半端なのかもしれない。私は結局、米さんを裏切っただけなのではないだろうか・・・・・。



先日、久しぶりに央とボブと朝まで語り合う時間の中で私は、
「おまえらゴメンな。俺が米さんの旅立ちを早めてしまったのかもしれないんだ。俺のせいだ・・・・・。」
そんな思いを廻らせながら、楽しそうに話す央を見て、涙が浮かび、もう二度と会えない米さんの、底抜けに暖かい心を思い出していた。



米さんはそんなに強い人ではなかった。
本当はさびしがりやで弱い人なんです。それを知っているのは、教え子達の中でも、きっと私としょういちだけでしょう。
それなのに、あの人のもとを去った私。
でもだから・・・・、私にはあれほど美しい妻がいる。かけがえのないかわいい5人の子供たちがいる。
間違っていたように思える日もあるが、妻と子の姿を見ると、やっぱり間違えてはいなかったのだと、そう思いたい。

いや、間違いなくそう思う。
私はあの時、米さんから卒業しようともがいていたのだ。
私は、私は米さんから卒業できたのだろうか。