創業者

私の会社の創業者は私にとってまるで『神』のような存在だ。


別に宗教ではない。あ、宗教批判する気もないけれど。


話を元に戻そう。


我社の創業者は、20代で一度会社を潰し、3億の借金を背負って再起をはかり、失敗に学び、その借金を6億にして返済し、改めて創業した現在の我社を、一代で築いた人である。
600億円近い売上と、1000人以上の社員。
我社の創業者理念は、社員の幸せなくして会社の繁栄はありえない。とし、創業者精神として、以下の言葉で社員一人一人の倫理と所作を指導している。



一、人の和をもって尊しとし、団結を持って力とする

一、会社の繁栄をもって善とし、力を尽くしたる者を以って正きとする。
一、社会が必要とする物を以って心とし、最高を以って魂とする


人間は元来勝手でワガママな生き物だ。
集合体が烏合の衆にならないようにする為には、そこに道徳や倫理が必要となる。
人類の長い歴史の中で、集合体に倫理を求め、互いを尊重しながらも安全で尊厳のある社会を形成する為、人類は法律を作り、政治を行い、多くの間違いを積み重ね、その度に間違いを後悔し、そこに学んできた。
我社の生い立ちは、一度倒産してから、再起を図ることで多くを学び、反省する事で学んできた歴史にある。




人間は、自分だけの事を考えるのではなく、人に何が出来るか、人に喜んでもらえるような行動や考え方が出来るか否か、そこに本来、人格の基礎的精神がある。
我社の創業者は厳しいお方である一方で、このような社員の人格を形成する上での理念、倫理、道徳を確りと教え、企業活動の根幹にあるものは、儲けを追求する事が第一ではなく、まずは『社会にいかに貢献できるか』を追及する事にあると教えている。
社会貢献に後に、必ず正しい儲けが付いてくるのだ。




我社はこの経済の冬の時代にあって、若干ではあるが昇給もしているし、賞与もしっかりと支給されている。
世界の多くの企業が、儲けるとすぐに内部留保し、利益を資産に変えるなどして、社員に還元しない事が多いことを考えれば、我社はその考え方とまったく逆である。
いたずらに高額な報酬を与える事はしないが、確実に企業利益に準じた報酬を、社員に還元する。


まずは社員の報酬を第一に思い、社員の幸せを第一に考えるのだ。
それが我社の創業者である。



先週末、その我社の創業者が、私の拠点に来阪された。
2日間同行し、拠点センターのご案内から食事などに渡り、じっくりとお話を聞いた。
過去、別の拠点責任者を務めている時にも何度が同行させていただいたことはあるが、その度にいつも思うのは、我社の創業者は、本当に純粋で実直で、常に考えている事が、社員と会社のことばかりであるという事を痛感する。
ご自身が身につけているスーツなども、決して高級な物ではない。
キチンとした身なりではあるが、普通程度、数万円程度のものである事がよく分かる。
今回驚いたのはベルトだった。
年期が入った皮のベルト。
しわが入り、所々しらっ茶けている。
きっと愛着をお感じになられているのかもしれないが、ご自身の服装にも、ベルトにも革靴にも、ブランド品や、高級志向品などを身につけることもない。


我社は、創業者の車がない。
これだけの企業になると、通勤は役員クラスでも、運転手が出勤時に車で送迎したり、外出時には運転手つきの車で出かけるのは珍しくない。
しかし、我社の創業者は、79歳というご高齢でありながら、鎌倉から水道橋まで毎日電車通勤されている。
けっしてご自身の健康志向を自慢する事もないし、押し付ける事もない。
ホテルもスイートルームなどにお泊りになることはない。
セキュリティ問題などがあり、一定のレベルのホテルを準備するのは我々社員の方であり、創業者ではない。
ベンツなどの外車や高級車も持っていない。
仕事と、仕事に対する姿勢には厳しい創業者だが、社員との会話では、本当に満面の笑みを浮かべ、キラキラした目で我々を見つめる。


ライブドア社長のような、企業の利益を最大に自身の報酬にし、個人資産を莫大に増やし、酒、女、遊びに多額を投じるような人物が一層増えているこの時代にあって、我社の創業者は、ゼロから我社を創業し、誰よりもご苦労され、今でもまず最初に社員の幸せの為にご尽力されているにもかかわらず、ご自身の遊興に使う金など、ほぼゼロである。
夜の銀座にも行かず、お酒は食事の際のビール一杯程度。
そんなお金があれば、1円でも多く、社員に還元したいという考え。


これだけの創業者でありながら。


私にはまるで『神』のように思える。


15年前、私は我社を30歳で中途採用に応募した。
社員の募集記事は、
『会社の繁栄は、社員の幸せなくしてありえない』
というものだった。


私は当時、恩師のもとを断腸の思いで離れ、自分の人生をマイナスから再設計しなければならない時だった。
結婚したばかりの妻を安心させたいという思いもあった。
そして何より、金儲けにしか興味のないような利益至上主義の社会にウンザリし、金儲けの上手いやつが偉いという、周りの風潮にも嫌気がさしていた時期だった。
水泳を通じて、子供たちの指導教育に携わり、オリンピック選手を育成したいという夢にや破れ、涙とともに師のもとを去った私は、これから迫り来る、社会の厳しい現実に身構えし、ウサギのようにカタカタと震えていたように思う。


そんな時に我社の面接を受けた。


創業者と私との間には、多くの先輩社員がおり、多くの役員や上司が居た。
だから、創業者の理念が時には捻じ曲がり、湾曲して伝わった事ばかりだった。
創業家、創業者の理念を匠に自己都合に合わせて解釈し、部下に間違った形で押し付ける者も多かったのではないだろうか。


しかし、私はそれらの先輩を乗り越えて、現在では折に触れて創業者と直接接し、直に対話をさせていただける立場になった。
そのおかげで、昔、先輩や上司に教えられた創業者の事と、私が心の中で信じていた創業者の姿との違いを、しっかりと理解する事が出来た。
私の信じていた創業者理念のとおりの方であった。
だからある意味では、私が現在、このような立場になっているのかもしれない。



いかに創業者の理念が素晴らしくとも、それを社員一人一人に伝える、先輩社員や上司、いわば、『伝え手』が、本質を理解していなければ、どんな言葉でも死んでしまう。
上司が語るに等しい人格者でなければ、創業者の言葉を殺してしまう事になるのだ。



私は創業者から学んでいる事を部下や後輩に伝える時、創業者の発したそのままの言葉を使わない。
理由は、私が創業者に等しい人格者ではないからである。
私には私のレベルの言葉があり、私が指導する社員には、私が指導するに相応しい社員が集まっているのだから、私の言葉でなければ、意味が浸透しない。
そのかわり、私は、私の部下には言葉の浸透力がある。
だから、創業者の理念は、私が私の力量に合わせて租借し、そして私の理念に変えて伝えなければならない。
決して自己都合で湾曲させる事なく、自身の正当性の主張になることなく、創業者の正義をリレーションさせる為に。それが我社なのだから。