ジェリー





私はもう動物に【情】を移さないようにしている。

かわいがっていたペットが、いつの間にか自身の家族のようになる。
いつか来る寿命を理解するにはまだ早い年頃に、私はその家族との別れを経験した。

良くある話なのはわかる。

子供の頃自分の飼っていたペットが死んでしまう話。

けれど、私の経験は、よくある話と一言ではくくれない、そんな経験だった。




子供の頃ウサギを飼っていた。

真っ白い体に赤い目をしたウサギで、名前をジェリーと言った。

トムとジェリーというアニメが、いつも夕方4時から15分間だけ放映していて、5時からスイミングで練習のある私は、4時半のバスに乗る直前、4時15分まで、パンをかじりながらトムとジェリーを観る。

そして終了後慌てて走ってバス停に向かうのだが、そのトムとジェリーのねずみのジェリーがとても利口で賢くて、いつも猫のトムを懲らしめるのがたまらなく面白くて、その名前にちなんでジェリーと名を付けた。



ウサギは普通、それほど懐く動物ではないと聞くが、ジェリーは普通では考えられないくらい利口だった。

『ジェリーっ』と呼ぶと、「ピョコタンピョコタン」と私のほうに走ってくる。
学校から帰ると遊びに行く事もなく急いでダンボールを抱え、一目散に蓮華畑に行き、箱いっぱいにジェリーの大好きな蓮華を摘み取った。

父が小屋を作り、普段は外で飼っていたが、外の小屋に戻すのは寝る前までで、私が起きている間は、弟と二人でかわりばんこにビザの上に抱き、水泳の練習から帰ってくると、膝に抱いて夕食を食べた。

私が父に、剣道の竹刀で、1時間以上殴られている間、ソファーの端に隠れてプルプル震えていた事もあった。

土曜日の楽しみだった番組の【Gメン75`】を見ている間も、家族の膝に、誰となくかわりばんこに抱かれ、スヤスヤと眠っていた。

伸びてしまった足の裏の毛を切ったり、爪を切ったりするときはそれを嫌がり、目を丸くして心臓が高鳴っているのがわかったが、『大丈夫だよ〜』と声をかけながらやると、落ち着いて身を任せた。

ジェリーはまさに家族の一員であり、私と弟にとっては自分の子供でもあるみたいに、いつも一緒に過ごし、両親に内緒で何度もベッドで一緒に眠り、毛だらけになった掛け布団を母に見られ、怒られたものだった。
しかしその真っ白で光るような輝きを放つ毛並みは、我が家へ遊びに来る友達にも自慢の毛並みであり、膝に抱いて、首からお尻まで、その毛並みを撫でると、ジェリーは目をつぶって気持ち良さそうに体を沈め、ものの5分も起たぬうちに眠ってしまった。






数年起ったある時、ジェリーの耳が、耳クソだらけになっているのに気づいた。

ピンセットで取るのだが、1日2日起つと、すぐにまたいっぱいになる。

長い耳の、内側の薄い皮膚に、こびり付くようにいっぱいになり、しまいには取ろうとすると、ピリピリと皮膚を刺激し、ジェリーはとても嫌がった。



近くの獣医へ連れて行くと、耳に垂らす薬を貰ったが、つけても一向に良くはならなかった。

それどころか今度は首辺りに、大きな腫瘍らしきものができて、ジェリーは明らかに動きが遅くなって、食欲も落ちていった。

蓮華をやっても食べず、時々少しだけ食べさせた事のあるイチゴを買ってきて、小さく切って与えても、一向に口を付けない。
半泣きで母に尋ねた。

『お母さん。ジェリーはどうしちゃったの?』
『首にできたものはなに?』

母は私と弟を諭すように言った。

「いいかいけんちゃん。ジェリーはね、もう治らないんだよ。ウサギの癌なんだよ。このままあんた達の為に、ジェリーを長生きさせたら、その分だけずっと、ジェリーは苦しむ事になるんだよ。耳だって首だって、痛いはずだよ。動物は口が利けないから、あんた達に【痛い】って言えないだろ?何も食べられないくらいに痛いんだ。だから、明日いつもの獣医さんのところに行って、【安楽死】させてくださいって、頼んでおいで。」

母に諭された話を、そのまま鵜呑みにできない私たち兄弟は、薬で治らないか、手術で治らないかと、何度も母に尋ねるが、せいぜい数日くらい延命できるだけで、余計にジェリーを苦しめるだけだと説得された。



翌日、学校から帰ると、私はジェリーを小屋から出してそっと抱き、数キロ離れた獣医に行った。
母から手渡された1万円札を3枚握って。


獣医に着くと、誰もいない診察室に通され、獣医が言った。

【ああ。これはもう無理だねえ。】

私と弟は泣きながら、薬や手術で治らないか獣医に尋ねた。
母に安楽死するように頼んできなさいと言われた事を覚えていたが、診察台にちょこんと座るジェリーを見ていると、どうしてもこの場で今日、私たち人間の手で殺してしまう事になるのが理解できなかった。


しかし獣医はもう手遅れだと言った。数分間の間泣きながら、私と弟は診察室で立ちすくみ、もう助けられないと言う獣医が、少しなげやりにジェリーを触るしぐさに苛立ちを感じていた。




安楽死させて欲しいんです。』




涙を必死に堪え、私はそう言ってポケットから1万円札を3枚出し、母から預かってきたことを告げた。

すると突然、獣医がそれまでの診断と内容が打って変わり言ったのだ。

【よし!今から手術しよう。やっぱり治るかもしれないからね。】

突然かわった獣医の診断に戸惑いつつも、治るかもしれないと言ったこの獣医の言葉に、私と弟は顔を見合わせ、涙が止まった。




獣医がジェリーの首の毛をかみそりで剃り、ピンク色のジェリーの皮膚があらわになったが、首の出来物の部分だけが黄色に変色していた。

獣医がジェリーに麻酔をすると、ジェリーはあっという間に動かなくなった。

診察台の脇に、私と弟が見守る中、獣医はジェリーの首の出来物にメスをたて、スーッと切った。
するとビックリするくらいに大量の黄色い【膿】が流れ出てきて、ジェリーの胸の白い毛にまで流れ出た。
血液と混じり、黄色い液体が橙色に変わるのを眺めながら、その姿がまた涙でにじみ、それでもジェリーのことを見守り続けた。

随分雑に、大きな隙間をあけて、獣医はジェリーの切れた首の部分を縫い合わせた。
違和感丸出しで真っ黒く太い糸が交差しながら何箇所もピンク色の皮膚を貫いている。


麻酔が効いて動かないジェリーを抱いて、会計を待つ私に、横に座っていた弟が言った。

『お兄ちゃん。お母さん、安楽死させてきなさいって言ってたじゃん。怒られないかなあ。』

そういう弟に私は、

『だって先生が治るって言ってたじゃん。』

そう答えたが、あの獣医が最初になんて言っていたか、私はその言葉を思い出していた。

(ああ。。。これはもう無理だね。助けられないね。)

確かに獣医がそう言った。
1万円札3枚をポケットから出すまでは。

最後に獣医に、これから3日おきに膿を出しに来なさいと言われ、また何度も、ジェリーは皮膚を切られるのかと思うと胸が痛んだ。




うつむきながら弟と歩く帰り道、ジェリーはまだ動かない。

弟は泣きすぎて、鼻水が顔中をグチャグチャにしている。

きっと私も同じような顔をしていただろうけど、それでも治ると言い換えたあの獣医の後半の発言を、私は信じていた。

持ていった3万円は、数十円の小銭のお釣のみとなって、私のポケットの中にある。

母に何と言うべきか。それが問題だったが、私は治ると言うのなら、母もきっと喜んでくれると信じていた。




家に帰ると泣きはらした私たちの顔を、麻酔が効いてまったく動かないジェリーを見て、母は、安楽死してもらってきたんだね。と言ったが、私は実は、獣医が治ると言ったので、手術をしてもらって、よく効く薬を貰ってきたと伝えた。
すると母が、

『何言ってるだい!あんた馬鹿じゃないの?治るわけないら!あんたいくらかかっただい?』
と言った。

私がお釣の数十円をポケットから出すと、母は怒って言った。

『あんたね、あの獣医は金にあくどいだで!あんた騙されてるだよ!ジェリーを見てみな!覚えてるら?あんなに苦しんでいたじゃん。癌だで!癌!ろくに食べる事もできないのに、助かるわけないら〜!なんでお母さんが言ったとおりに安楽死させてやんなかっただい!獣医なんて金儲けで、あんたに治るって嘘ついてるだで!3日おきに来なさいなんて、治らないのに金儲けのためだけにきまってるら〜!』


最初は治らない、もう無理だと言って、3万円出したら治ると言い換えたあの獣医のことを思い出しながら、私はまた悲しくなってオイオイと泣いた。
医者にそんな悪いやつなんかいるわけないと本気でそう思っていた。
本当に思い直して、ジェリーを助けてやろうと思ったのだと、そう信じきっていた。






それでも3万円かけて手術して、薬を貰ってきて、母にどやされて尚泣く私に、母は諦めて、薬も自分で飲ましてやって、めんどう見るならと、仕方なくジェリーを見守る事にした。

私は理屈はわからなかったが、どうしても自分の手でジェリーを殺すことができなかった。
その後も何度もプラスティックの針のない注射器の先を、ジェリーの口に少し入れ、嫌がるジェリーに必死で薬を飲ませた。
時々イチゴを買い、すりつぶして与え、蓮華の花の部分だけを口に運び、食べさせようとした。
果実の汁を飲む事と、水を飲む事はできたが、根本的に食欲がない。
手術と病気のせいでひどく弱ってはいたが、膿を出したせいか、時々元気な日もあって、それでもそれから数週間、ジェリーは生き続けた。





ある日の夜、スイミングの練習から帰る道、父の運転する車の中で今日はジェリーの容態はどうだろうと、そんなことを考えながら景色を見ていた。
家に着き、ジェリーの小屋へ向かう。
練習が終わって夜帰ると、決まってジェリーが小屋からこっちを見て、暗闇の中から赤いジェリーの瞳がきらりと光る。
今日はその赤い瞳が見えない。

小屋に近づくと、ジェリーが横たわっていた。

『ジェリーっ!ジェリーっ!』と声をかけるが、首も持ち上げない。

小屋の扉を開けて、ジェリーの毛並みに触れると冷たく硬かった。
すぐに死んでいるとわかった。

水を入れてある小皿のすぐそばにジェリーの口元があった。

『お母さん!ジェリーが死んでるぅ〜!』

必死に母を呼ぶ。

そして母が言った。

「けんちゃん。ジェリーは死ぬ直前に、きっと水を飲んだんだね。【死に水】って言ってね、人間も死ぬ前に、水が飲みたくなるだよ。ジェリーは死ぬ直前に、おなかいっぱいに水を飲んで、いい気持ちになって死んだだよ。だから苦しまなかったさや。」




父が用意したダンボールに、私が使っていた毛布を敷き、そこにジェリーを寝かせ、上には弟の毛布を掛けた。
庭の花と大好きだった蓮華を沿え、そして私たち兄弟の宝物だった【めんこ】や【ライディーンの超合金】、ウルトラマンの人形などを箱に入れた。
よく、【ジェリー対ウルトラマン】というシチュエーションで遊んだからだった。
いつもジェリーが勝つ遊びだった。
何時間も声を出さず泣き続け、涙が止まらないままいつのまにか眠ったようだった。




朝目が覚め1階におりると、昨夜ジェリーを寝かせた大きなダンボールがあり、すでに父によって厳重に蓋がしてあった。
私はもうダンボールを開ける事もなく、そのダンボールを数回撫で、心の中で(ジェリー・・・)を声をかけ、学校へ向かった。





授業中、私の頭の中は、あの嘘つきの獣医の事でいっぱいだった。

治ると言ったのに治らなかった、嘘をついたあの獣医が許せなかった。
学校の帰り、あの獣医の所に向かった。
どうして治ると嘘をついたのか、それを確かめたかった。
お前がジェリーを殺したんだと、そう言ってやりたかった。
怖くてドキドキしながら向かう道のりだったが、到着すると玄関が閉まっており、中にも誰の姿も見えなかった。
玄関に張り紙がしてある。

数日間の休業だった。旅行の為と書いてあった。

私は当時、旅行と言うと下田温泉しか知らず、あの獣医は、ジェリーが苦しんで死に水飲んで最後を迎えたとき、まさにそのジェリーを使って金儲けし、温泉浸かっているのかと、ものすごい直球で推察し、ますます怒りを積上げた。

(ぶっころしてやる)




恐ろしい子供だ。(俺)




そしてまた数日後。

あの獣医への怒りも収まらず、学校から帰ると、まだそのままになっているジェリーの小屋に、まだ生きている気がして近づく私。

しかしジェリーはいない。

そしてまた泣く私。

学校ではガキ大将で、いじめられている子がいると、助けに行く毎日を過ごし、正義の味方気取っていた私だけど、実は家に帰ると物凄い泣き虫。




スイミングの前に何か食べる為、近くのスーパーに向かった。
いつものお湯を入れてかき混ぜるだけで食べられるカップのお蕎麦を買おうと、店内に入ると、目の前の通路にあの獣医がいた。
自分よりはるかに小さなヨチヨチの子供を連れ、奥さんと一緒に3人で買い物をしている。

(今だ!今言ってやれ!ジェリーを殺したのはお前だと!)

そう心で叫ぶが手が振るえ、声が出ない。

(なにをしている!言え!)
(あんな手術をしなければ、もっと生きられたはずだろう!)
(あの時安楽死させてくれていれば、ジェリーは苦しまなくてすんだのに!)

全身を震わせながら拳を強く握り、思いっきり叫んだ。



『この人殺し〜〜〜〜〜!!!!!!!』


スーパーの中にいた人が全員立ちすくしたようだった。


振り向いた獣医の私を見た瞬間の、ばつの悪そうな顔を私は今でも覚えている。
そして店内で、間違えてウサギなのに【人殺し】と言ってしまった私を、レジのパートだった丸山さんという同じ町内のおばさんがそっと両腕を抱き、けんちゃんどうしたの?とそっと話しかけてくれ、物凄い形相でただボロボロ涙を流す私に、ハンカチで涙を拭ってくれた。
近所でも有名だったガキ大将の私。
水泳大会でいつも一番だったガキ大将の私を【何かあったのね】とやさしく外に連れ出し、コーヒー牛乳を飲ませてくれた。








子供たちがウサギを飼ったり、ハムスターを飼ったりしているが、私は一切可愛がらない。
情を移したくないからだ。


大人になった私が、獣医に人殺しだなんて、もしそんなこと言うまでに情が移ったら目も当てられない。
自分が子供の頃に感じた痛みを、自分の子供に学んでもらう機会があるのはいい。


が、私はもう2度と嫌だ。


だから子供達が飼っているペットにも興味を持たないように努力している。






あの頃のジェリーにまつわる思い出は、あのスーパーのところ、その辺までしか覚えていない。

しかしここまでは物凄く鮮明に記憶している。

俺とジェリーとの思い出。