暑い夏だ。

福島第一原発の貯水タンク、いつまであんなごまかしが続けられるのだろう。高濃度汚染水が漏れ出す事、漏れ出していた事、そしてそれが海へ流れ出ている事、流れ出ていた事、すべては東電と事故を独自で調査してきた民間の有志はとうに知っていたことである。

それがまるで今わかったように報道する日本のマスコミには、本当にその猿芝居に感心する。
電力会社の広告宣伝費が会社を支えているマスコミが、その報道の信憑性をどこまで担保で切るのだろうか。

日本は至る所が病にかかっている。

日本の病は、日本の国民が社会の病を治せる優一の頼みの綱なのだが・・・・・。




そして私を含めた日本のサラリーマン。

心の病が急増中と報道されている。

私の周りでも、最近よく聞く。

以前、事務職員として採用した女性は採用後たった3日で統合失調症とわかり、色んな手を尽くして助けたいと思ったが、私が思っているより精紳と心の病は簡単なものではなく、救えなかった。


しかし私とて、まるで精神に異常をきたしてやいないだろうかと思うような苦しみを感じる事は珍しくない。

また同様に、【この人どこか病んでるな】と思うような人も決して少なくないと思う。

そう思えるようなシーンによく出会う。




現代社会は競争と金の鬩ぎ合いが日常のほとんどを占め、息を抜くところがないと言うよりも、人格の形成に重要な倫理や理念、そして哲学と道徳に欠ける世界が世のほとんどに蔓延っている。



【いじめ】という問題が子供たちの世界から消え去らないのは、現実的にこの時代の人類の人格が、ある意味限界値だからかもしれないと思う。


子供の世界だけではない。


大人の世界であってもまったく同じ事が言える。


人の為に良かれと思い、無償の心と愛で、誰かや誰か達の為に努力する人を、外からそこに乗りたくないからといって、闘争心、競争心の塊のような、社会的地位に拘る心ない人物が、その善意を間接的に潰そうと遠くで動く。

陰で糸を引き、陰湿に足を掛ける。


そんな人が遠くに存在し、ネガティブ運動している事を、昨日知らされた。

とても残念な気持ちになった。

きっとそういう人は、自分がなにをしているのか、わかっていないのだろう。

キリストが神に向かってゴルゴダの丘で言った言葉を思い出す。

【神よお許し下さい。この者達は自分が何をしているか、わかっていないのです!】

(ちなみに私はキリスト信者ではありません)







しかし一方で、そういう族の間接攻撃を痛み、状況をいち早く理解してくれてて、手を差し伸べてくれるような天使のような人も少なくない。

普段何度か、顔を会わせていたり、普段はなかなか会わずとも、昔からの長いお付き合いの人生の先輩達や、青春を共に生きた友は、まったく無償の愛で手を差し伸べてくれて、暖かい声をかけてくれる。

そういう美しい人も決して少なくない。


(けんいち君。昔から何も変ってないね。がんばって。)


こんな言葉をかけてもらったのはもう何十年ぶりだろうか。









幸い私の会社と、私の部下達にはそういうネガティブな二面性を持った言わば、隠れた心の病を持った人物がほとんど存在しない。
私の仕事における環境下は、とても恵まれているのだろう。
いつも思うが、私は本当に出会いに恵まれて、そして出会ってきた人格者によって助けられ、多くを学び、これまで生きてこれたと思う。



一方、自分の居場所確保の為に、見えないところから攻撃をしかけ、自分の存在価値を、人を引き摺り下ろす事で一時的に上げようとする人は、一時人を集める事ができても、人が集まってくる事はない。

何かのステータスで半ば強引に人を収集してもそれは一時的な満足度合いの快楽として存在するだけである。
人格者には人が自然と集まる。
望むと望まざるに関係なく、そういうものなのだ。

人付き合いが嫌いな人であっても、そこに愛があり、人格者であれば、望まなくとも人が集まるのだ。





損得を予測し、そしてそれとわかる所作で近づいても、それは愚かな事だ。いずれにしても長続きせず、そこに何も残せない。
何も残らなければ自己の尊厳を失うだけ。
支那サイバー攻撃のように、遠目からわからない場所から攻撃する愚かな人は、心の病かもしれない。
病とわかれば受け入れよう。
しかし自己の愚かさを、自己の正当性の主張として打っている(ぶっている)間は、愚か者でしかない。

治療が必要である。