安田先生
小学校6年生の時の担任の先生の名前。「安田先生」。
アゴが出ていて、大きくて、数学が得意な紳士だった。怒る時は目をひんむいて怒るが、普段はニコニコしていてやさしかった。
5年生の時、ある競泳の選手権があった。ハワイで開催される招待水泳選手権への参加資格が懸かった大会だった。
そこで見事優勝を果たした私は、憧れの始めての海外遠征への参加資格を得た。大会の閉会式で前に呼び出された選手の中で、最年少の私は、一人でニコニコ。うれしさを隠し切れず、満面の笑みだった。
5年・6年と、2回ハワイ遠征に選抜された。
1年後の6年生の卒業まじか。学校の指導で、生徒全員が「わが生い立ちの記」という、小学校版の卒業論文のようなものを書かされた。
その内容で私は、小学校のうちに海を渡れたことを自信満々に文章に書いた。自分の努力でつかんだ海外遠征。そして獲得したメダルのこと。
特に、水泳と言う個人スポーツで選抜された事を、何より強調した。
自分の力でつかんだ栄光だと。
ク
ラスの全員が提出し終わり、次の日に学校へ行った朝のことだった。
まだ、ホームルームも始まらない雨の日の朝だった。
クラス全体がガヤガヤしている中、安田先生が目をひん剥いた顔をして教室に入ってきた。
「すみよし〜っ!」と大きな声。耳を劈くような激しい怒りの声だった。
叱られる覚えのない私。驚きと恐怖で、顔は引きつり、全身は硬直する。
教室の前にある先生の机に呼ばれ、一言。
「なんだこの文章は!!」
(ええ?なんのことだろう?)
「ここを読んでみろ!自分の文章を!!」
(は・はい・・・。)
「・・・・・10代で海外へ出たいと言う夢を自分の力だけで成し遂げられたことは、これからの自分の自信になると思います・・・・」
(小学生にしてはなかなかだと思う。)
私は言われるままに、先生の赤いマジックで波線を引かれた部分を読んだ。
まだまったくわからない。何を叱られているのか。
そして先生が大声で私を叱り始めた。
「住吉が水泳をやってこれたのは誰のおかげだ! お前の両親が毎日毎日スイミングへ送り迎えしてくれたからじゃないか!。スイミングの月謝は誰が払ってるんだ!お前の親じゃないのか?海外遠征は誰が行かせてくれたんだ!?自己負担だってあるんじゃないのか!?何が自分の力だけで成し遂げただ!お前を不自由なく、ここまで育ててくれたのは、誰でもないお前のお父さんとお母さんじゃないのか!?」
初めて気づかされる自分の驕り。
自分の愚かさにあまりに、私はこの時、生まれて初めて自分にショックを受けた。
何も言えなかった。
顔をぐちゃぐちゃにして泣いた。
恥ずかしくて情けなかった。
今でもあの安田先生の怒った声を思い出すと胸がつまり、涙が出る。
毎日スイミングに行く前に、お腹が空くからとそばやうどん、サンドイッチなどを食べさせてくれるおふくろの姿や、夜8時頃に練習が終わると、毎日車で迎えに来てくれていた親父を思い出した。
日曜日の2回練習の時は、誰もがうらやむお弁当を持たせてくれた。
弁当にはお袋の手紙が入っていた。
(練習がんばってね)
お袋の短い手紙を、周りの子供によくからかわれたものだ。
試合があると、当然のように毎回応援に来てくれた。
試合の日のお弁当も格別だった。
スタート台に立つと、「けんいち〜!」と、誰よりも大きな親父の声が聞こえたものだ。
自分の驕った考えに、とてつもないショックを受けた。
クラスの全員が静まり返っていた。
3分ほどだったろうか、涙が止まらない自分の腕をつかみ、安田先生が言った。
「お前には感謝する気持ちを大切にして欲しいんだ!」
そう言った安田先生の顔も、涙でぐちゃぐちゃだった。
気がつくと、クラスの子たちも、私と先生の涙につられ、そしてその言葉に、むせび泣く子もいた。
この時、私は、自分が自分ひとりで生きているわけじゃないという、当たり前のことを学んだ。
今思えば、すごい先生だと思う。まさに聖職者だと思う。
あの時に、自分が両親の愛に支えられて生きているのだということに強烈に気づかされた。
小学校のぎりぎり卒業まじかになって、気づくことが出来たのは、奇跡的なことでもあり、安田先生の神がかりな言葉のおかげだった。
クラスのみんなの前で、鼻水ぐちゃぐちゃにして泣いたのは恥ずかしかったけど、あの時は、みんなきっと勉強になったはずだ。
誰も泣いた私をからかわなかったし、2年前のクラス会では、みんなその事を覚えていたから。私は間違いなく、あれが分岐点になっているんだと思う。
クラスのみんなも小さな1ページとして記憶してくれた。
思えば、最初に使った心の経費だったかもしれない。