安藤という生徒

こうしてブログで昔の事を書き綴っていると、時々涙が出そうになってしまうことがある。次々と思い出すことを自分で書きながら、自分でベソかいてる。
恩師の存在、友人の存在、後輩の存在・・・。
思えばいつも誰かが私のそばにいて、いつも何かの力になってくれていた。
だから生きてこれたんだなあとつくづく思う。

最近「伊達直人」の存在が一躍有名になった。
みんなきっと、この不条理な世の中で、何か良いことをしたいって思っているんだと思う。
ランドセルを送るのだって、大変だと思う。ランドセルって、すごく高い。
25,000円くらいするんんだから。

エンピツや色鉛筆、ノートや画用紙。それぞれのふところ事情の中、それぞれの正義の味方が、出来る限りの事をしていた。

もう最近は報道加熱状態ではなくなってしまったから、「私も!」という人も減ってきてしまったかもしれない。

小学校6年生の時、クラスに転校生が来た。名を、「安藤」といった。
教室で先生に紹介されているとき、彼は両手をギュッと握り締め、硬く拳を握っていたことを覚えている。
喧嘩っ早くて、転校早々よく喧嘩をしていた。
彼は、児童養護施設に入所している孤児だったが、最初はまったくそれを知らされていなかった。

ある日、ちょっとした事でまた喧嘩が起きた。私はクラスのリーダー的な存在だったので、当事者から安藤があまりにも理不尽だと言うような相談を受けた。
そこで私は安藤と話をした。しかし彼の主張は実に一方的で、聞く耳を持たず、かえって話をこじらせてしまった。
私も引き下がる事が出来ず、結局、学校の「仲良し山」の裏で、放課後話し合う事になった。しかしそれは、喧嘩でけりをつけようとすることだと、二人ともなんとなくわかっていた。

放課後仲良し山へ着くと、安藤はすでに待っていた。右手に石を持っている。それを私に投げつけるのかと思ったが違った。パンチを打つ時、石を握っている方が効くらしかった。(後日聞いた話だ)

しかし直後、前出の「安田先生」が現れた。当然喧嘩は中止。二人とも職員室へ。不思議な事に安田先生はほとんど怒らず、ささいな喧嘩の原因の聞き取りを済ませると、安藤だけ帰るように言い、私だけが残された。

そこで安藤は両親がいないこと、養護施設に居ること、前の学校でも喧嘩を繰り返していたことなどを聞いた。
うつむく私に安田先生が言った一言を覚えている。

「おまえがあいつの親友になるんだ」

そして私は、6年生の1年間、彼とはとても仲良く過ごした。
彼もそれから随分かわった。喧嘩もしなくなり、クラスにも良く馴染んだ。

今思えば、彼がいつもイライラしていたのは、転校によるストレスや不安から、自分の身を守ろうとする、幼い防衛本能だったのだと思う。
それはその後、私自身が中学2年で東京へ転校し、寮生活になった時に気づいたことだ。

私は会社の業務に、ある知的障害者施設との連携で、社会に出られない方々にある仕事を依頼し、我々の業務に入れ込むビジネスモデルを展開している。少ない額ではあるが、知的障害があっても、自分の力で仕事をして、自分で稼げるという、実にうれしいモデルの展開に成功した。
これからもずっと続けていきたい。施設のご両親は、涙を流して喜んでくれた。諦めかけていた我が子の経済活動が、小さな形ではあっても実現した事を。

養護施設へのモデルはまだないが、今後も「施す」という概念ではなく、社会保障制度以外で、民間のビジネスに対流できる形のモデルを考え出したい。自分たちで「稼ぐ」ことが大事だ。施しなら社会保障だけでいい。
自立がなにより大切なことだ。

しかし、このような良い提案も、会社を説得するのには苦労した。
なかなか「うん」と言ってくれなかった。
その為、最初の半年間は、自腹を切って、様々な活動を行った。随分お金を使ってしまったが、「金は天下の回り物」と信じて、自分への先行投資と思って活動した。

妻は一切文句を言わなかったが、何をするにも最初は・・・・、経費かかるよなあ〜。