変化

仕事でも家庭でも、生きる上で様々な変化を求められる事がある。
過去の自分と決別して、現実を受け入れていく自分への勇気。人間は誰でも今までの自分のままで生きていけたら楽が出来る。けれどそういうわけには行かないのが人生というものだろう。
たとえば仕事。3人でやっていたことを2人でやれなんて言われると、誰でも「そりゃ無理ですわ〜」と口にする。その心理は、(これ以上自分が忙しくなるのは嫌だ)とか、(やっと慣れてきて、うまく回せるようになったのに、またかき回される)とか、(うまく抜いてこれたのに、怠けられなくなる)とか、様々だ。自分が変わると一言で言うが、かわる必要があると事を突きつけられると、何とかしてうまく逃げる方法はないものかと、逃避する心理状態が自分に覆いかぶさってくるのだろう。
過去の自分との決別という表現をしたが、過去の自分を「捨てる」という意味とは実際は微妙に違う。人間は過去の自分は結局捨てられない。現実と向き合う現在の自分を作ってきたのは、過去の経験や学習によるものだから、過去の自分を捨てると言う事は、過去の経験も、学習も間違っていたと、そう処理するような気持ちになりかねない。しかしこれは間違いだ。いわば、過去の自分に対して買いかぶらず、現実に向き合う勇気を以って、新たに受け入れていくということだろう。過去から現在にかけての自分に、新たな価値観を重ねて、積み上げていく作業ということだ。
人は自分が興味があること、あるいはそうしたい事については、拒絶反応は少ない。あきらめる事はあっても、拒絶することはないと思う。
しかし、自分がそもそも興味がないこと、あるいは、自分が意図せず、周りの環境などにせっつかれた場合などは、最初に来るのは拒絶と逃避だ。
ここで過去からの自分との戦いとなるのだと思う。
最近あらゆるシーンでそれを強く感じる。私自身が自ら大いに変化し、より豊かな感受性を培い、家族や部下に見せ付けていくことが大切だ。
私も自分との戦いに入る。体や心がそれに慣れ、より広い視野を以って来る現実を受け入れていく。そうすれば出来ないことはない。できない要求は自分の前には現れない。出来る事だから宿題を神に出されるのだと思う。
受け入れる勇気さえ獲得できれば、実はちょっとした工夫が糸口だったりするものだ。拒絶や逃避している間は見えない、「ひらめき」や「気づき」が、大津波のように浮かんできたりする。


先日我社の役員が、、「会社の金で酒を飲むときは、仕事の話以外するべきじゃない!」と、もっともだけど、がっかりするようなことを言われ、転勤する部下の送別会(新天地激例会)は、全額社員の自腹でやることに決まりました。責任者の私、少し多めにカンパしたほうがいいよなあ〜。

経費かかるなあ〜

がんばれよ〜「安田」と、「ともか(奥様)」〜!