さかっぺ

「さかっぺ」は私の幼馴染だ。
最初の出会いは小学校5年生だったと思う。同じ小学校だから、その前からきっと知ってはいたかもしれないが。さかっぺと友達になったのは、明らかに5年生だ。
私たちは、なぜか気が合った。性格はまったく違うし、趣味や好きなことも、まったくかみ合っていなかった。
けれど、財布は同じドラえもんの小銭入れで、ほぼ毎日、さかっぺの家で遊んだ。


さかっぺの家では、当時さかっぺの好きだった、「KISS」の曲を聴きながら、さかっぺの好きな漫画を読んだり、近くのお寺に探検に行ったり、商店街を歩いて、インチキロッテリアみたいな店で、ポテト食べたりした。さかっぺは漫画を描くのが上手かった。家でも学校でも、自由帳によく漫画を描く。「パーマン」と「ウルトラマン」が合わさったようなキャラクターを作り、「ウルパーマン」という漫画をよく書いていた。

学校の図工の時間も、画や工作が誰よりも上手かった。字はそんなに特別上手くなかったが、(下手ではない)習字になると抜群のセンスを発揮した。

勉強の成績もとても優秀だった。常にテストはクラスでも1番か2番あたりの点数で、実際には100点か98点、たまに90点といった具合だ。とにかく私にとって、彼は憧れのような存在でもあった。
しかしさかっぺは、運動センスがなかった。だから、運動に自信のある私は、逆にさかっぺからは少し憧れられている部分もあり、彼の一番苦手なマラソンでは、私は常に1番だったから、そんな理由もあってお互い惹かれていたのかもしれない。


私は水泳の練習があったから、遊ぶ時間はいつも4時までだった。4時半に家に帰り、4時40分くらいのバスでスイミングに行くからだ。覚えているのは4時くらいになると「すみけん、もう帰るの??」と、帰りがけにいつもさかっぺがいう言葉。周りの子供は大体5時までが遊ぶ時間だったから、1時間友達が早く去るのがなんとなく納得いかなかったのかもしれない。

5年・6年と、さかっぺとはいつも仲良く遊んだ。私は彼の影響を受け、勉強の成績がどんどん上がった。さかっぺと張り合うようになり、テストも90点以上がほとんどになった。おふくろは大変喜んで、さかっぺと遊ぶようになってからは、勉強もするようになり、成績もあがったと、さかっぺ大好きな母親になった。



そんな私たちだったが、中学に入って少し事情が変わってきた。小学校の時と違って、喧嘩の強いやつがクラスを牛耳るようになった。
その微妙なパワーバランスから、さかっぺの付き合う友達が、私から少し突っ張った生徒に代わった。
私は学校がつまらなくなった。中学に入学して、さかっぺと同じクラスになれたのに、さかっぺは私と全然遊ばなくなった。同時に、さかっぺは私から見て、少し大人に見えた。きっと私が子供っぽいままだったのかもしれないが、ただでさえ、小学校6年のときに誰よりもおちんちんに毛が生えるのが早かったさかっぺなので、私は置いていかれている自分を感じ、さびしくなった。

そのうち中学2年になり、さかっぺとはクラスが変わった。私は中学2年で東京の寮生活のために転校したから、それ以来そのまま、さかっぺとは会わなくなった。大切な友達だという事に、気持ちは変わらなかったが、さかっぺの友達は私ではなくなっていた。






東京での合宿所生活になり、私は日本中学新記録などを樹立するなどした。
それは田舎のさかっぺや友達にも伝わっていたらしく、スミケンという存在は、まだ田舎の友達に残っていた。

そしてそれは皆がバラバラになった高校でも同じだった。高校でも日本高校新記録を樹立したり、大学でもちょっとあることで騒ぎになったりしたので、田舎の友達にも私の存在は消えていなかったのだと思う。

大学を出て、一人暮らしを始めたある日、一本の電話がかかってきた。出るとさかっぺからだった。
彼は東京の大学を出て、今もそのまま東京に住んでいるのだと言うではないか。私たちはすぐに待ち合わせした。
東京の目黒区、柿の木坂のセブンイレブンの前だった。

待ち合わせの場所で久しぶりに会ったさかっぺは、まったく変わっていなかった。
少し太ったところは、昔、学校の先生に「もやし」と言われていたさかっぺとは違って大きくなっていたが、笑うと目がなくなる屈託のないさかっぺの笑顔は、昔のままだった。

時間を忘れて話した。中学で私から離れていった事も、さびしかったと言うと、彼はわかっていたと言った。今は後悔していると言ってくれた。まだ子供だったと。私とまた会えたことが嬉しいと言ってくれた。そして、まるで失った時間を取り戻すみたいに、いつも一緒につるむようになった。

彼はパチンコで生活している「パチプロ」だった。私はそれまで、世の中に本当にパチプロなんて存在していることを知らなかったが、さかっぺがその初めての存在だったと知り、本当に驚き、その緻密さに感動した。そしてさかっぺは実際パチンコでかなりのお金を稼いでいた。飲みに行っても、必ずみんなより多く出したり、ご馳走してくれる。私にとっては幼馴染の友達だから、「金ヅル」のような存在ではまったくないのだが、他の人は、さかっぺと一緒にいると、まったくお金を払うそぶりを見せないほどだった。

そういうさかっぺも、母親から定職に就けと、よく叱られていた。お金の問題だけではないと、ちゃんと仕事をしなさいと、当時のさかっぺの一番衝かれたくない話を、さかっぺの母親からされていた。
そんな私たちに、アムウェイというネットワークビジネスの話が来た。私たちは、つまらない企業に入ってサラリーマンなんかしたくないって思っていたから、一人でビジネスができるアムウェイは、飛びつく話だった。まだ社会の現実も、ネットワークビジネスの現実もまたく知らなかった。

私のアムウェイビジネスはそこそこ順調だった。私はあまり人を増やす活動はしなかった。商品を近所の主婦や、企業に売りまくり、販売利益と、売れたポイントで帰ってくるボーナスが、なかなかいい金額だった。けれど、さかっぺは上手くいかなかった。やる気のある若者を引き入れたりしたが、あとが続かなかった。

ビジネスモデルの説明をする場所がなく、あまり好きではない上の人の家を借りて、小さくなって説明会をしていた。私はさかっぺと本気でこの仕事をしたいと思っていた。そこで、大きなマンションに引っ越すことを決めた。
しかし、もうその頃は、さかっぺはパチンコをやらなくなっていた。アムウェイをちゃんとやる為だ。そのせいで、彼の収入が激減していた。私は1ヶ月間車で寝て過ごし、金を作って、二子玉川にマンションを借りた。そこでさかっぺと一緒に住んだ。

二子玉川のマンションには、その後、居候が2人増え、4人で暮らしたが、さかっぺは相変わらずアムウェイが上手くいかなかった。そのうち私はアムウェイというビジネスの形が嫌いになっていった。まるで上手く騙すみたいに調子いいことだけ話して、人を勧誘するスタイルに、違和感を感じていた。商品を販売するのは楽しかったが、その商品も、聞いてきたクオリティとは実は違うというような現実を知り、そしてなにより大きかったのは、社会に貢献できているような感触がまったくない、個人主義なビジネスだということだった。

その頃から、さかっぺとは昔の友達の関係とは少し付き合いが変化してしまった。私はいつもさかっぺに、アムウェイが上手くいかない原因がさかっぺ自身にあると、いつもさかっぺに偉そうに話をした。いつもそういう話は誰の話でも素直に聞くさかっぺ。時に反論することはあっても、結局素直にいう事を聞いた。

しかし気持ちのすれ違いが始まった関係のベクトルは、少しづつその方向のずれを大きくし、気がつくと、もう二人ともアムウェイをやる気などなくなっていた。
ビジネスの仲間は他にもいたが、私たちがやらなくなると、皆が去っていった。本当はもうみんな、偽善的なアムウェイのやり方に疲れていたのだと思う。

そうしているうちに、さかっぺは、私が紹介したある友人と仲良くなった。私にとっては二人とも、それぞれに大切な親友だったが、私よりもその友人とさかっぺの方が仲良くなっていった。私は、またあの中学時代と同じ思いをした。





マンションを引き払い、私とさかっぺは離れた。それぞれ別の道を進み始めた。時々さかっぺから、新しいネットワークビジネスの話があったりしたが、私は彼に、もうそろそろ、そういうビジネスからは足を洗えよ・・・と答えた。
そしてほとんど連絡も来なくなった。どこで何をしているか、まったく知らなくなってしまった。
その後、私は凄く苦しい時間の歩みを進むことになった。
まともに社会に参画していない時間があり、同世代の社会人よりも、総合力で劣っていたのだろう。内容は割愛するが、本当に苦労した時間だった。





ある日、久しぶりにさかっぺから連絡があった。電話の先で、落ち込んだ声で、「大腸癌」になった事を聞かされた。
そして、肛門も、膀胱も切除しなければならないことを聞いた。

愕然とした。

しかし、丁度その時代は、私にとって本当に苦しい時代だった。
サラリーマンになったばかりで、自分の人格をすべて隠し、初めて会う多くの上司や「年下の会社での先輩」に、こき使われ、人格否定までされ、毎日逃げ出したい生活を送っていた。
結婚して2人目が生まれ、会社から逃げ出すことができなかった。
私自身も、今までのように好きなことやって暮らすわけにはいかないと、自分への戒めの為に、神様が与えた試練かもしれないと、そう考えていた。
毎日酒につき合わされ、上司にお酌し、説教を聞き、笑顔でうなずき、お世辞を言う。
バカみたいな上司に、「さすがですね〜」なんて言って、ご機嫌取りしなきゃならない、そんな生活だった。家に帰るとぐったりして、布団に入って悔し涙を流した。


そんな時だったから、さかっぺの側に、すぐに飛んで行ってやらなかった。さかっぺは物凄い孤独と戦ったと思う。
それでも手術後、さかっぺの実家にお見舞いに行った。
つまらないと思うかもしれないが、サラリーマンになりたての、情けない毎日を送る自分を、さかっぺに見られたくない気持ちもあったが、さかっぺはそれどこじゃない大病をしたのだから、元気づけに、行かなきゃって思った。

妻と子供を連れて会いに行くと、別人のようにやせ細ったさかっぺがいた。第一級障害者となった彼は、普通に便をすることも、小便をすることもできない体になっていた。

なるべく昔みたいに話した。

私にとっては、米さんを癌でなくした間もない時だったから、再発だけを心配した。






それからまた私は、さかっぺと、昔みたいに一緒にいてやることができない生活に戻った。
嫌な会社に嫌な気持ちのまま通う毎日にもどった私は、また、自分を維持するだけで精一杯だった。
さかっぺという幼馴染の親友に、冷たかったと思う。
言い訳をすれば、私は本当にその時期、辛く苦しく、情けない毎日を送っていたのだ。自分のことで精一杯だった。






サラリーマンを、米さんの教えどおり、「3年乗り越え」また「3年乗り越え」としているうちに、アホな上司が次々に会社を辞めた。
横領でクビになった上司もいた。
私はようやく自分の長所を、仕事に反映させられるようになっていた。アホ上司を反面教師として、過去の水泳の経験を生かし、部下を育て、後輩を大切にし、水泳で1番を目指すように仕事をした。
苦しかったこともあったが、やっと実ってきたときだった。実家に帰ったとき、ひょんなことからさかっぺの書いた本を発見した。


「僕は明るい障害者」(癌がくれた贈り物)という本だった。


さかっぺはあの大きな手術のあと、元気に復活し、そしてネットワークビジネスで大成功して、自伝を出版していた。
そして、本物の億万長者になっていた。
本当に驚いたが、同時に心から嬉しかった。
そして、きっともうあまりかかわることもなくなるのだろうと思い、また少しさびしい気持ちになった。
お互い生活している場所も遠く、仕事もまったく関わりのない生活だ。
きっともう、昔みたいに会うこともなくなるのだろうと思った。

しかし先日、Facebookをきっかけに、さかっぺと連絡を取り合うことができた。
ほんの少し電話で話したが、少しクールになっているような印象を受けた。私の予想だが、億万長者になった彼は、きっと昔みたいに、金銭的に友達を助けたり、食事や酒の席も、全部自分で出したり、旅行や移動の交通費なんかも、誘った友達の分まで全部出してやったりしてるんだろうと思う。
さかっぺはそういうやつだから。
だから、できたら時には私が奢ってやりたい。
安い居酒屋程度しかご馳走できないけど、利害のない友達として、いつまでも残っていてあげたい。
そして、我が家に招待して、ずいぶん増えた子供たちを紹介し、家で我が家特製の鍋料理を振舞ってあげたい。


そのうち会えるだろうか。

会えたら、積もる話がいっぱいある。
クールになったかもしれない、昔とほんの少し変わったさかっぺに。そして、ビックリするような大金持ちのさかっぺ。
ビジネスで大成功したさかっぺ。
5年生の時に、大きな影響を受けたさかっぺ。
また昔みたいに、私の憧れるさかっぺになった。

第一章は5年生の出会い。

第二章は東京での出会い。

第三章が始まればいいな。昔の俺たちのままで。