リーダーと正当性と「正義」

菅総理大臣のリーダーシップが問われている。
リーダーシップというのは、努力して培える物でもないと思うがどうだろうか?
自分で自分の話をするのがブログだから許して欲しいが、私は一定のリーダーシップという能力があると思っている。私は自分のリーダーとしての資質を高める為に、明らかに努力した事もある。たとえば洞察力。観察力。ディベート力。しかし、そのどれもが、何より自分自身の辛い経験や、悲しい出来事を乗り越えながらだったからこそ、体に染み付いたのではないかと思っている。今の感覚で言えば、もう「リーダーとしてのセンス」といってしまった方が簡単だが、私の価値観で言う本当のリーダーとは、人間としての「総合力」を具えた者を言うと思っている。私の言う「総合力」とは、平均的な能力を具えているという意味ではない。得意不得意はありつつも、あらゆる面で、総合的に優れている人間力のことを言う。そしてそれを支える物は、思いやりや痛みに対する感受性が、誰よりも高く、経験をもとに人の心をイメージ出来ること、そしてアドバイスや指導が出来るものの、「待つ」ことが出来ること。人の成長には時間がかかる事の方が多いからだ。何かのきっかけで、一瞬で人の心構えが変る事はあるだろう。しかし、本質的な成長には時間が必要だ。肌に沁みこむ時間が必要だ。
私はサラリーマンでしかないが、この国の経済を支える、小さな集団である事に誇りを持っている。そして、それは重要な社会貢献だと思っている。小さな経済が集まって、この国の経済を支えているのだ。
だから私は、縁あって出会った部下、仕事を共にする部下に、「お前の人生を変えてやる!!」という気概を持って接している。より強い社会人に育て、思慮深く、思いやる心を持った、懐の深い人間に育てる事が、私のリーダーとしてのひとつの仕事だと思っている。
もちろん仕事の業績を伸ばし、会社に利益をもたらし、社員をより豊かにすることも、重要な目的だ。会社員であれば、それはそもそも前提条件でもある。
リーダーシップと、マネジメントは違う。マネジメントにリーダーシップは必ずしも必要ない。時に大きな組織では、リーダーとしての資質より、マネジメント能力の方が重要視される。近年、欧米的な経営思想が重宝されがちだからだ。ドラッガーのマネジメントはその最たるものだと思う。
しかし、日本人には日本人にあったマネジメントがあると思う。日本人はそのリーダーの声、顔、笑顔、性格、愛嬌なども重要な要素としてリーダーを見る。「この人の為なら死ねる!」というような気持ちになりたいのが日本人の本能だと思う。
人はみんなより良い事をしたいと思っている。
人に喜んでもらいたい、人を助けたい、貢献したい、尊敬されたい・・・・、そういう「善」の行動に対する憧れを心に秘めている生き物だと思う。私はそう信じている。
リーダーとしての大切な仕事のひとつに、その人の心を最大限に引き出し、具体的に行動する事が出来る道を示してあげることがある。
地味だが実は一番大切だ。
先日、リーダーの資質とは何か?と聞かれ、「決断力」かなあ〜と答えたら、さすが!!と人事部に言われたのだが、人事部に褒められても違和感がある。
きっと何かのハウツー本で読んだんだろう。
たしかに様々なシチュエーションにおいて、私は失敗を恐れず、やる方法だけをイメージし、勇気を以って決断する事も多い。しかし、決断なんて、一度コツを覚えると、意外と簡単に出来る。出来ない理由を等々と並べるのをやめて、やる方法を考えればいいのだから、割と簡単な感覚である。特に政治の世界などでは、重い決断をそれぞれにして、割と簡単に失敗している。リーダーとしての資質が決断力というのなら、今の政治家にも、リーダーの資質を持った人物は割りと多いと言う事になるのではないか?
菅総理大臣も、苦しみぬいて様々な決断をしている。それらを積み上げ、現在の日本の苦難と対峙している。しかしそれでもリーダーシップに欠けると、マスコミは叩きまくる。そして国民はそのマスコミの論調に洗脳されていく。よもや自分の頭で考えることすら難しいのではないか?
今国民は、リーダーの出現を「期待」し、リーダーに「期待」したい心境に囚われている。しかし実はリーダーは、国民が育てる物なのかもしれない。

政治家は国民の鑑だ。この国の政治は、国民の私欲の鑑だ。
東電のウソも、保安院の責任逃れも、原子力政策の顛末も、すべては日本人の私欲の果てにある。
それをしっかりと国民にわからせることが出来るリーダーが、今この国には必要な気がするのだ。
私利私欲を捨て、自分の「正当性」の為ではなく、本当の「正義」を考えよう。
この国の正義は、正当性の主張を正義と勘違いしていることにある気がする。