司法と敵討ち

市橋被告の求刑は「無期懲役」。
リンゼイさんの御両親はどんな気持ちだろう。何度市橋を殺しても、それでも気がすまない気持ちだろうと思う。だってもう娘は帰ってこないのだから。
私は自分の娘がそんな目にあったら、きっとすべてを捨てて、犯人を捜す。そして生け捕りにして、娘があわされた辛い目の、何倍もの苦しみを与えてから殺す。
そんな風に考える私は、やっぱり人間失格者だと思う。自分の娘はもちろん、妻や両親や弟でも同じ事だ。
目には目を・・・という言葉があるが、そんなもんじゃない。それ以上に恨みを晴らすことだろう。
でもそんな事をしても、だれも喜ばないかもしれない。子供は5人いるが、残された子供たちや妻のことを考えるなら、じっと我慢するべきなのか。警察に任せていれば、法的に裁かれ、時間と共に私の気持ちも変るだろうか。

人間とはそのシチュエーションが変れば、少しは受け入れやすくなるのだろうか。
たとえば戦争。大東亜戦争時代、村の若い青年達が、政府の発行する赤い紙一枚で、死にに行った。
両親の深い愛情によって育まれた大切なひとつの命が、初めて上陸した知らない国の密林で、「ひゅんっ!」という風きり音とともに鉄砲の弾が体に当り、一瞬にして消えていった時代があった。
日本だけではない。世界中どの国であろうと、戦地に送り込まれた肉親、子供が、そうやって命を落としている。

戦地で命を落とすことと、殺人とは議論がまったく違うが、かけがえのない命を失った肉親や両親の気持ちは、どこにもぶつけられない。犯人にも直接ぶつける事は出来ないし、戦争であれば政府という実体のない組織にぶつけるわけにもいかない。不条理な事よ。

大国の国力に任せた戦争攻撃で、国力が弱い国の国民が虐殺されれば、子供や妻を殺された男達が、自分の命をかけてテロリズムに走る。きっと私も、そのような状況になれば、決死の覚悟でテロ作戦に参加し、命をかけよう。そして妻や子供の待つ天国に行くと思う。危険な思想だ。しかし、私の本音。

いつになっても殺人事件は絶えず、戦争もなくならない。今だってきっとどこかで事件が起き、あちこちで戦争している。そして、悲しみの顛末を政府に委ね、その恨みを検察組織と司法に委ねる。それがほぼ地球のルールなのだ。

法で裁き、死刑にして、たとえばそれで被害者家族や被害者当人の気持ちが晴れるわけではない。それしか方法がないのだ。他にあるとすれば、自分で敵を討ち、自分の裁かれる道しかない。しかし世界の正義からは、それは間違っていると判断されるのだ。裁かれる事を承知であろうと、たとえどんな理由であろうと、敵討ちであろうと、殺人は許されないのだ。
不条理だ。
だからみんな、悪い事と戦争はやめようね。
事の顛末がどこにもないから。