危険な吊り橋

このブログを書き始めてから、何回か、中学時代の寮生活の悲惨さについて書いてきた。先輩の洗濯物当番の事や、寮での夕食の嫌いなオカズをすべて食べさせられた事、まるでいじめみたいにされた事。
だがよく考えてみると、自分のブログだからと言って、少し自分側からの感覚での表現が多すぎていたような気がする。誰に何か、言われたわけではないのだが、実は、「はっ!」としてしまった。
あの頃の寮生活では、私が中学2年生で、先輩は、高校1年生が3人、2年生が1人、3年生が1人、大学1年生が1人、そして1年年下の「ひさし」がいた。全部で8人での生活だった。
だから先輩とはいっても、まだ高校生がほとんどで、当然世間も知らないし、道徳感、倫理観、モラル、正義・・・、それらについて一定の成熟を以って生活していたわけではない。
いやむしろ、親元を離れた事による開放感と、苦しく厳しい毎日の練習によるストレスによって、時には年下の後輩にあたったりする事のほうが普通だろう。
大人になって社会人となり、企業で働く事になってからでさえ、若い頃は、部下が出来たばかりの頃は、上司としてどの様にしたら良いのか、そんな事さえわからない人がほとんどだろう。
また、男の場合は、子供が生まれてから、やっと少しづつ父親の自覚が芽生える。10ヶ月間お腹に子供を抱え、成長を確かめてきた母親とは、スタートラインが遅れている部分もあるだろう。だから、最初は何をどうしていいのか、本能的に培っていない。そしてまったく役目を果たせないところから始まる。意欲のある父親は学んでいくだろうが、父親である事の重要性を理解していない者は、妻を助けずに、子育てに協力してくれない男も少なくない。
少し脱線したが、いわば、「先輩と後輩の関係とそのあり方」などについて、あの頃の先輩達が、その理想論を理解しているわけがない。
みんな、まだまだ子供だったのだ。そして、それぞれの子供たちなりに、みんな親元を離れ、不安を抱え、厳しい練習の毎日を過ごし、ストレスを抱えていたのだ。
それは私だけの事ではなかったのだ。
前回の日記で、「一番怖い先輩」と称して、鈴木さんのことについて触れさせていただいた。
あの頃最も子供で幼稚だった私は、いつも私を叱る鈴木さんが大嫌いだった。もっと小さい頃は憧れの先輩だったのだが、一緒に寮生活をするようになって、鈴木さんがまるでうるさい兄貴のような感じとでも言おうか、私は、鈴木さんに対して完全に反抗期。鈴木さんだって、まだ高校を出て、大学に入学したばかりの頃だった。
しかし考えてみれば、鈴木さんは物凄い人だ。
あんなに小さな寮生活の世界で、5歳年下の世間知らずの幼稚な子供を相手に、生活指導を担当させられ、頼ってきた米川先生からは、私の水泳の成功の責任の一端まで任されていたのだ。
そしてもっとよく考えてみると、他の高校1年から3年までの先輩達も、少し悪い事しながらも、鈴木さんの指示は徹底して厳守し、私とひさしには、水泳に打ち込む環境をいつも担保する事に注意していた。
ということは、私が水泳で日本チャンピオンになれたのは、米川先生のおかげだけではなく、鈴木さんのおかげでもあったのだ。私だけでなく、ひさしもチャンピオンとなり、彼は世界選手権で入賞した。

しかし当時は確かに無茶な事もさせられた。夜9時くらいから始まる先輩へのマッサージは、熾烈を極めた。夜中の12時を過ぎ、3時間が経過してもマッサージは続けさせられる。ウトウトしながら、手のひらの親指の付け根が攣りそうになりながら、ほぼ毎日マッサージした。
しかしその一方で、先輩達は全員、私たちを守ろうとする意識も強かった。たとえば暴走族元総長の金田さんは、もし通学途中でも、どこでも、チンピラや不良に絡まれたら、すぐに俺の名前を出せと言った。それでもし通用しなかったら、とにかく寮まで逃げて来いと言う。俺達のところにまで何とか来れれば、絶対に相手をボコボコにしてお前を助けてやる・・・という具合だ。当時は携帯電話などもなかった時代だから仕方がない。出先では連絡がつかないのだから。
また、学校が終わってから門限までの18時までの数時間、金田さんはよく私を連れて出かけた。他愛無いお出かけだが、喫茶店や、スーパーなど。
金田さんとは学校をさぼって、映画を見に行ったり、上野公園へ行ったり、アメ横でスカジャンを観に行ったりした。お金はろくにないから、たいしたことは出来なかったが、東京出身の金田さんは、渋谷、新宿、上野、銀座と、東京を案内してくれた。

先輩が多かったから、学生服も困らなかった。どんどんお古が来るからだ。ズボンはあまりにも太すぎて、中学へ履いて行くと先生に怒られた。学ランは丈が長すぎる、「長ラン」で、これも先生に怒られた。でもそのおかげで、成長する体のわりに、学生服を買わずにすんだ。


先輩達とはその後、それぞれの活躍の場へと環境が変わっていったが、何度か一緒に呑んだり、ゴルフに出かけたこともある。
いい歳になっても、会えば一瞬にして昔のままの関係に戻る。辛い思いでであると同時に、かけがえのない思い出でもある。

あの寮生活は、今にも切れそうな細い縄で出来た吊り橋を、グラグラ揺れながら渡るような時間だった気がする。明日がどうなるのかわからない不安な日々と、青春の時間を水泳に賭けていたのに、決して上手くいかなかったまだ10代の子供たち。何が起きてもおかしくないくらい危険で、崖っぷちのような毎日だったのに、あの寮の出身である私たち米川先生の教え子達は、全員があっちに逝ってしまった米川先生を心の拠り所にしながら、あの当時の思いでを胸にしまい、きっとその経験を活かして生きている。
みんな元気だろうか。
先輩方がみんな、元気で幸せでいることを信じたい。