一番怖い先輩

中学2年で東京に上京し、寮生活に入って、紆余曲折あったが、なによりとにかく一番怖い先輩が居た。
鈴木孝洋さん。
鈴木さんはとにかくかっこいい人だ。出身は私と同じ。共に幼い頃は富士に勤務していた米川先生に育てられた子供だった。
鈴木さんは中学生の頃から、市や県の数々の大会に優勝し、海外遠征にも選抜されていた。私の憧れの選手だった。
鈴木さんは、高校進学のタイミングで、東京の強化チームに入り、寮生活を始めた。その頃はまだ強化チームのコーチは米川先生ではなく、先生はそれまで鈴木さんや私がいた、富士のスイミングにいたのだ。
その頃の東京の強化チームは、全国から有望な選手は集めていたものの、担当コーチが寮生活の実態までを管理していなかった為、まだ多感な高校生の鈴木さん達は、親元を離れ、米川先生の影響力もない、伸び伸びとした生活の中で、煙草を覚え、遊びを覚えた。
私が中学1年の頃、あこがれていた強化チームと鈴木さんの顔を見たとき、昔のようなスター性のある顔とは違って、なんだか人相が変わったような気がしたのを覚えている。怖い顔・・・とでも言おうか。
半年後の中学2年で、米川先生が強化チームを担当する事になり、私は不破央さんと、米川先生と、同時に東京へ行った。東京の強化チームの寮は、みどり荘。薄汚いアパートだが、忘れもしない1月4日、初めてみどり荘の玄関から、部屋に入っていった時は、強烈だった。
その時はすでに6人の先輩がいて、部屋の中は煙草の煙で真っ白だ。先輩達は私が部屋に来たことなどお構いなしで、テレビを見ながら煙草をふかしている。ベッドには大量のエロ本。マージャンの跡が、コタツ板の上に散乱している。テレビからはシュガーのウエディングベルという曲が流れていた。

そんな寮生活の始まりだったが、鈴木さんは他のどの選手が煙草を銜えようとも何も言わなかったが、私や央が、ふざけてでも先輩の煙草を銜えただけでも、物凄く怒った。そして、他の選手達に、賢一と央だけには、絶対に煙草を吸わせるなよ!と、きつく指令を出していた。
親元を離れるから、寮生活は青春真っ只中の選手達にとって、ある意味ではなんでもやり放題である。学校もよくサボった。私は、金田さんという、元、本物の暴走族の総長と一緒に、二人で学校をサボり、松原団地という、近くの駅の映画館で、映画を観て過ごしたりした。喫茶店ナポリタンやミートソースを食べ、アイスコーヒーを飲んで、金田さんはおいしそうに食後の煙草をふかしていた。
そんな時も金田さんは、完全に鈴木さんの指令を厳守していた。私が金田さんに、ちょっと一本吸わせてください!と言っても、おまえはダメだと、決して吸わせなかった。元暴走族総長の金田さんでも、鈴木さんだけは怒らせたくないのだ。金田さんが恐れた人は、米川先生と鈴木さん以外、きっと今でも存在していない気がする。
鈴木さんは、私に厳しかった。挨拶の仕方や、言葉遣い、生活態度、時間厳守、食事、洗濯当番や掃除まで、いつも私を叱った。でも当たり前だった。私はそれまで、親にすべてを依存し、何から何まで母がやってくれていたのだ。先輩達の洗濯はおろか、自分の洗濯物だって、満足に出来やしなかったのだから。
一度、自分の学校の上履きが乾かなくて、寮の食堂にある電子レンジで温めようとして、鈴木さんに、ど叱られたことがあった。レンジでチンすれば乾くと思った私は、どれだけ世間知らずだったのだろうか。私にとっては、様々な雑用と、両親の居ないことによる厳しい生活の一方で、寮の最年長者であり、寮長であった鈴木さんにとって、中学生で寮に入ってきたまだまだ子供の私は、きっと危なっかしくて、世間知らずで、その上、出身が同じ富士でもある事から、何とか守らなければ・・・という思いがあったのだと思う。それは後の会話で改めて知る事になった。
それから15年ほど経過したある日、久しぶりに鈴木さんと、そして前出の田島修さんと、富士市で一緒に酒を呑んだ。
昔話は主に、修さんが「寮出」をした時の話だ。
修さんは、寮出を決行する日、自分の部屋のコタツのテーブルの上に、置手紙をしていった。
本人はきっと、
「帰りが遅くなります。」
と書きたかったのだろう。しかし実際は、
「帰りが終くなります。」
と書いてあった。
同様と混乱が字に表れ、寮出をする書置きまでが誤字だった修さん。その話をすると、鈴木さんと修さんと私は、あの頃の空気を思い出して、一層おかしくてたまらない。笑いすぎて息が出来なくなるまで笑う。次の日は決まって腹筋が痛い。
しかしそんな修さんが寮出をした時、一番必死で探すのは鈴木さんだった。何度修さんが寮出しても、その度に鈴木さんは必死で探す。走って寮を出て行き、バスに飛び乗って、修さんの行きそうな所へ出かけていった鈴木さんの姿を覚えている。
さらにそれから数年経ち、病院で米川先生が亡くなった時、鈴木さんは最後を看取った。私は間に合わなかったが、鈴木さんは誰よりも、米川先生の最後に間に合わなかった私の事を気遣ってくれた。先生のお葬式で、教え子の中から弔辞を読んで欲しいと、親族から依頼があった際も、鈴木さんは、「けんいちが読め、おまえが一番側にいたんだから。」と言って、私に弔辞の役目を譲ろうとした。
しかし、私は米川先生はきっと「それはあかん!」と言うと思った。私たちのリーダーであった鈴木さんが弔辞の役目を果たすべきだ。米さんもそれを望んでいるはずだ。そう思った。鈴木さんはそんな事は重々わかっていたが、私を思いやってくれたのだ。ずっと側にいた賢一が読め!ギリギリまでそう言って、私を気遣ってくれた。最後は米さんの意思を感じ取ってくれた鈴木さんが弔辞を果たした。
その日、鈴木さんが私に、米川先生の思い出を語ってくれた。
鈴木さんが寮長努めていた頃、高校生ばかりの寮に、中学1年生と2年生の子供が寮に入ってきたのだ。
5歳年上の鈴木さんは、高校3年生だった。大学進学直前という時期だ。
米川先生は、鈴木さんに特別な指令を出していた。
それは以下の様な指令だった。

けんいちとひさしは、お前らとは違う。本当に日本一になり、オリンピックに出場し、世界を狙う逸材だ。
煙草などもってのほか、これからのこの強化チームを改革し、日本チャンピオンを育てて行くのだ。
けんいちとひさしが、選手として大成できなかったとしたら、それはおまえの責任でもある。
お前はいい。選手としては。お前の役目はそれより、寮長として厳しく選手を指導し、ひっぱって行く事だ。

と、このような事を指示されていたのだ。
米川先生もなかなかひどいことを言う。鈴木さんだって元は水泳で日本チャンピオンを目指して東京に来たのだ。その証拠に、練習に対して一番真面目だったのは、他でもない鈴木さんだった。
その鈴木さんに、選手としてのお前はもうどちらでもいい、同じ富士出身の、大切な後輩2人を、しっかり教育し育て上げることに尽力する事がお前の役目だ。と、そう言いきったのだ。
米さんは寮の改革の要に、鈴木さんを選んだ。鈴木さんはその先生の選択に、意を決して従った。
そうして後に、水泳界に旋風を巻き起こす、NAS(日本体育施設運営株式会社)の強化チームが誕生したのだ。
強い選手であり、楽しく明るく競泳選手としての時間を走る選手達に、日本の他のチームの選手達は挙って、NASに入りたい!と言われたものだった。後に聞いた話だが、周りの選手達からは、NASの選手達と、米川先生との関係は、他のチームでは考えられないような関係に見えたらしい。深く強い信頼関係で結ばれ、常にポジティブな集団に、ある時期、水泳界は圧倒されていた事は事実だ。
その集団形成に自分の選手としての青春を、コーチと共に使う選択に生きた鈴木さん。今では私にとって、最高に尊敬する先輩であり、一瞬にして昔のワガママで、ナルシストな自分に戻れる、心を許せる愛してやまない先輩だ。
あの頃厳しくしてくれた事を、心から感謝している。
そして鈴木さんがいてくれたから、自分は選手としての道を、全うする事が出来たと思うのだ。鈴木さんがいなかったら、とっくに挫折し、非行に走り、後に東京へ寮生活に入った事を後悔していただろう。
常々思う。今の私があるのは、鈴木さんのような、私の道を正しい方向へ、常に修正を加えてくれた先輩や恩師がいたからだ。
人生は、実はギリギリの橋を渡っているのかもしれない。
出会った人に感謝する・・・・そんな言葉を昔からよく聞いてはいたが、最近になって、心から、心の底からそう思う。

今から10年前の鈴木さん。物凄くダンディ。
今はスポーツクラブの経営者。ゴルフのレッスンプロ。水泳出身の鈴木さんがゴルフのレッスンプロになれたのは、きっと物凄い努力があったからだろう。
さすがだ。鈴木さん!
なんか、久しぶりに会いたくなってきた。修さんと一緒に・・・・。