水虎の穴

20年前、大学を出てすぐに、私が選んだ職業は、恩師の米さんがが独立して作った米さん1人しかいない会社への就職だった。
あの頃の就職先は、色んないい話があった。しかしそれでも私は、米さんの一言で、やっぱりこの人と一緒にいよう・・・と思ってしまった。
卒業を間近に控えた私に米さんは、
「俺の会社には、お前みたいな想像力の豊かなやつがほしいんだよなあ〜」
と言った。その一言で、私はすべてのレールを捨てた。
私が一緒に居たいと思ったのもある。
でも、米さんも絶対に私といようと思っていた気がする。あの頃の米さんは、それまで築いてきたキャリアを捨て、たった一人での独立を決意した直後であり、きっと寂しさもあったように思える。
私の給料はなかった。というより、米さんは私に自分で給料作って来いと言った。
それまで、水泳漬けの人生を送ってきた私は、なかなかの世間知らずだったから、どこで何して稼いだらいいのか、まったくわからなかった。とりあえず、Tシャツに色んなプリントして売った。行き付けのスナックの記念Tシャツ作ったり、知り合いのスイミングスクールのチームTシャツ作ったり。それでもTシャツの販売利益なんかしれている。たいした稼ぎにはならなかった。

米さんの独立内容は、スイミングスクールの経営や、コンサルタントだった。当然スイミングスクールなんか持っていないから、主な仕事はコンサルタント業務だ。米さんはあちこちのスイミングスクールやスポーツクラブに足を運び、いつも色んなアドバイスをしていた。
今の私なら、米さんのやっていたことがすべてわかるが、当時の私はほとんど理解していなかった。
しかし、事業計画書だけは、本当に何度も何度も、米さんに作らされた。
様々な切り口から企画して、奇抜でワクワクするアイデアを要求され、それを実際の運営内容にまで成熟させる。さらに数字に落とし込んで、損益シュミレーションまで作った。時には徹夜で、一晩で作らされた事もあった。ある土地のオーナーに、スクール経営のシュミレーションを頼まれ、銀行借入から売上のシュミレーションと、すべての科目別経費のシュミレーションを、返済計画10年で事業損益計画に仕上げ、1日で提出した時には驚かれた。まだ23歳くらいの若造だったからだ。

確かに世間知らずの水泳馬鹿な私だったが、米さんの指示は徹底して守り、実行した。誰よりも早く理解し、そこに私流の肉付けをしていった。Tシャツの利益はしれていたが、コンサルタントの売上は一時、桁が違う事もあった。

でも私と米さんがやりたかったことはそんなことではなかった。私達がやりたかったことは、選手の育成だった。愛知県豊橋市の潰れる寸前のスイミングスクールの経営権を買い取る話が来たのはそれから5年ほど経過した時だった。
潰れる寸前のプールの経営権など、二束三文でいいはずなのに、米さんは、大金を払って経営権を買い取った。
私は反対だった。だから正式には数年してから豊橋に合流した。
米さんが私の代わりに豊橋に連れて行った「正一(粂川正一)」とは、この時出会った。
水泳出身でもないのに変ったやつだと思った。東京でスイミングに就職し、そこで知り合った人物に米さんを紹介されて、水泳を勉強する為に米さんの自宅のベルを鳴らした変ったやつだった。

正一とはそれからの付き合いだから、もう20年にもなる。彼は今、我社にいる。つい2年前まで同じ拠点の部下を努めてくれていた。

米さんと私と正一は、スイミングスクールの経営をやりたかったわけではなかった。3人とも、選手を育成し、オリンピック選手を育て、金メダルを取りたい・・・、それが夢だった。選手を育成する為だけに存在する組織、「水虎の穴」を作る・・・、その為に、まずは金を作ろう!お金を作る為に、スイミングの経営をしよう!そこでお金を作って「水の虎の穴」を運営しよう。それが私たちのやりたいことだった。

しかし数年で経営は破綻した。会員が少なかった。近隣に、設備の整った、最高レベルのスイミングスクールやスポーツクラブが多すぎた。
私は、スイミングを閉める1年ほど前に、先に人生をやり直す選択をとった。米さんに断腸の思いで、別れを告げた。
2人で倒れたら元も子もないと言って、米さんは私の就職先まで世話してくれた。しかし私は、その就職先は数ヶ月で辞めた。自分で何もかも、自分だけの力で動き出す必要があった。
そして自分で就職活動を始めた。30歳だった。そして現在の会社に拾って頂き、今がある。

米さんは豊橋のスイミングスクールの閉鎖直前、病に倒れた。金銭的なストレスが原因だと、私は今でもそう思っている。直腸癌というのは、そういう病だ。

私は現在の職業を13年続けている。よくがんばってきた。まあまあよくやったんじゃないかと思う。会社は、中途社員では珍しいような早い出世もさせてくれた。給料も倍になった。正一もこの会社にお世話になっている。私は我社のオーナーには、実は心から感謝しているのだ。オーナー家は、私と正一に、過去のつながりがあることなどまったく知らない。会社の社員のほとんどが、そんなことは知らない。しかし、私も正一も、米さんに徹底的に鍛えられた、損益や事業計画などの数字に対する強さや、企画提案などの、脳みそに汗かく才能に、自信がありながら、それを活かせなかった豊橋の経験が、現在の仕事に役立っている。
米さんに仕事で恩返しが出来ないが、社会には小さな恩返しが出来ているのかもしれない。

しかし、私の体の奥に潜む遺伝子の中にある、自分の一番燃えるもの・・・・・。それは「水泳」だ。
誰のせいでもなく、私の選んだ道は、長く曲りくねり、「水泳」に戻らなかった。そして、その長く曲がりくねった道で妻と子供達と出会うことが出来、そしてその道が私の歩む道の、最短距離だった。