私の親子関係

どうしても両親の事を思い出すと、厳しかった事ばかりが浮かんでくる。
可愛がってもらった記憶が、実に曖昧なのだ。

子供の頃、水泳の練習から帰ると、すでに夜の8時半頃だった。
練習前に軽くパンなどを詰め込んで練習に向かうのだが、夕食は練習が終わって、家に帰ってきてから食べる。
だいたい、8時45分とか、9時くらいになってしまう。

学校から帰ってきて、すぐに練習へ出かける為、父親とはこの時間になってから初めて今日一日のことについて触れる時間となる。
ここで何が起きるか・・・・・。
私は台所のテーブルに座り、夕食を待つ。
母は、夕食の支度をしながら、突然咳を切ったように、父に対して私の学校でのトラブルについて話し始める。
「ねえ、あんた〜、この子はね、今日また学校でガラス割っただで〜!」
といった具合だ。
ガラスは6年間で数十枚割ったし、蛍光灯割ったり、喧嘩して相手を泣かせたり、確かに色々あった。
しかし、私はこの夕食の時間で、母が父に「言いつける」事が恐怖だった。
あの頃の父は、母の親が経営する会社に勤めていたが、母の兄が経営陣として、とんでもない馬鹿野郎だった為、それに耐えることで必死だった時期であり、会社から帰り、スイミングの迎えに来る頃には、物凄い期限が悪かった。
笑う事もほとんどなく、いつも眉間にしわを寄せ、イライラしているのは、子供心にわかっていた。
その不機嫌の極致にいる父に対して、母がヒステリック気味に私の学校での悪さを告げ口する。
そのうち、その告げ口を聞きながら、父も私と夕食を摂る為、テーブルに着く。

いきなり飛んでくる鉄拳。

後ろからの場合もある。
前からの場合もある。

後ろからの場合は、前歯や唇が茶碗にあたる。唇の場合は、軽く血が出るが、血より、腫れるのが嫌だった。
前からの場合の方が、構える事が出来るが、父は、運動神経が良い私の、鉄拳を避ける動きが許せなかったらしく、私が避けられないよう、なるべく気づかれないタイミングで鉄拳を振り下ろす。
前からの場合は、だいたいオデコにあたる。
茶碗のご飯が飛び散って床に落ちたり、食べかけのおかずがあたりに飛び散るなど、まったく珍しくない。
父の狂ったような怒鳴り声と、容赦ない鉄拳が飛んでくる台所。
子供の私も、食べるのをやめればいいのだが、我が家は食事中、箸を置く事を許されていなかった。
どんなに殴られていようと、怒鳴られていようと、食事を途中でやめることも許されない。
鉄拳制裁がエスカレートし、私も怖くて痛くて座って居られなくなると、立ち上がってしまう。
立つと、立つんじゃないとまた殴られる。
そういう時もいつも、茶碗を左手に持ち、右手に箸を持っていた。
とにかく机に茶碗と箸を置いてはいけないからだ。

何発も何発も頭を鉄拳が襲う。
それでも父も、母でさえもまったく容赦しない。
父への私の悪行の言いつけは、止まらない。
「あんたね、この子はね、こんなこともしたたで〜!」
と、こんな怒り狂っている火のついた大人の男に、ますます油を注ぐのだ。
父は見事にさらに怒り始める。
私をぶってもぶっても気は収まらない。
そのうち、手が痛くなるからといって、剣道の竹刀を使うようになった。






私が子供の頃した悪さ・・・・・。それは学校で掃除の時間、濡れた雑巾を投げ、廊下のガラスを割った事や、蛍光灯を割った事。
それから、ずる賢いやつが許せず、口で負けて、悔しくてぶん殴った事。喧嘩になってお互い散々殴り合って、かきむしりあっても、最初に手を出した私が悪者になった。
先生に、なぜ喧嘩したのか、そう聞かれると、相手は実に弁舌滑らかにその理由を説明する。その説明は見事に私が悪い内容である。
でも、ウソっぽくない。
そして、確かにウソじゃないんだけど、でも、どこかがウソで、うまく私だけ悪くなるように、変えられているような記憶ばかりだ。
私は子供の頃、大人に怒られると、何も言い返せない子供だった。
きっと言い返すと、父に、10倍くらいの暴力を振るわれる経験があるから、黙って俯くしか出来なかったのだと思う。



でも、そんな程度の悪行で、なぜあれほど私は殴られたのだろう。
剣道の竹刀は、なんどもなんども、叩きすぎで割れて20本以上変えた。
完全に教育という名を借りた暴力であり、しつけという仮面を被った、大人のストレス発散だった気がする。



水泳の練習から帰って、お腹ぺこぺこで夕食食べようとして、母に捕まり父に何十発も殴られ、頭をタンコブだらけにして、10時くらいに泣きながら2階へ行く。それから学校の宿題があるからだ。
勉強が嫌いだった。成績はそんなに悪い方じゃなかったが、母いわく、母は、いつも学校で一番だったらしい。
でも私は、50人のクラスで、いいところ10番以内くらいだった気がする。テストも90点以下はほとんどなかった。

が、練習で疲れ、父にボコボコにされ、泣いて2階の机に座ると、私がすることは、机の本棚あたりをボ〜ッと見つめながら、ただ泣く事だった。
(なんでこんな目にあうんだろう)
(この家はいったいなんなんだ)
(もう死にたい)
(痛くない死に方はないだろうか)

そんなことを考えながら、ボ〜ッと涙を流す。
学校の友達は頭に浮かぶ。
スイミングの友達が頭に浮かんでくる。
(みんなはこんなに普段、怒られたり、殴られたりしているのかなあ・・・)
(自分だけが悪い子供なのかなあ・・・)

もしタイムマシンがあったら、私はあの頃の自分に会いに行き、もう少し上手に話して聞かせる。
「大丈夫。君は悪くないよ。でもね、雑巾を投げると、ガラスが割れるリスクがあるだろう?そしたら、君は、とても大きな損をするじゃないか。だからやめておかないかい?」って。

「ずるいやつってには、どこにでも居るもんだよ。そんなやつにいちいちかまっていたら、自分が損するだけなんだよ??」って、そう言って聞かせる。

おとなしく静かに掃除して、クズ相手に喧嘩も出来ない男だったら、私は父にあれだけ殴られる事もなかっただろうか。
母は、ヒステリックに父に「言いつけ」たりしなかっただろうか。

いや、きっと、問題は私にあったわけではない気がする。
あの頃の両親の、置かれた状況や、彼らの人格や人生経験が、ああいうことをさせたのだと、それからの私の人生では、定義付けた。

子供の頃に親に言われたセリフ。親の教え。中には覚えている事も多いが、それらの言葉を思い出すと、いかに彼らが当時、大人として未熟だったか・・・・。そんな風に思ってしまうのだ。

私の心の中から、この思い出が消えない。
もう今は、恨んでいるわけじゃない。でも中学の頃は恨んだ。
だから東京の寮生活の、米川先生の誘いを受けて、親から離れたのだ。






しかし、親元を離れて知った事は、「親のありがたみ」だった。
ヒステリックな母や、狂ったように殴る父でも、そういうことばかりだったわけじゃなかった。
毎日食事を作ってくれた。
時には外食にも連れて行ってくれた。
病気の時は、好物のお蕎麦の出前をとってくれた。
熱が出ると、氷枕を用意してくれた・・・・・のだ・・・・・。


寮生活になったとたん、食事は寮母さんが作ってはくれるが、とびきり不味いし、先輩達の食器も10人分毎日洗わなければならない。
洗濯もすべて自分でやる。しかも、先輩の洗濯物10人分を、練習が休みの月曜日の4時頃から7時くらいにかけて1週間分をやらなければならない。
熱を出し、病気になっても、昼間の寮には誰もいない。
自分で這って病院へ行き、自分で薬をもらい、昼食も自分で考えなければならない。熱があるときは食欲も出ない。だから何も食べずに薬だけ飲む。
どれほど熱が出ようと、氷枕なんか誰も用意してくれない。
いくら風邪で咳き込んでいようと、夜、同室の先輩のタバコの煙がベッドの上の段に寝る私の所に滞留する。




大嫌いな両親に、実は、何もかも世話になっていたのだ。
そう・・・・・。
そうやって思うと、そういえば・・・・・と、気づくことが増える。
病気の時は優しかったっけ・・・・・。
試合で一番になると、褒めてくれたっけ・・・。
ラソン大会で一番になると嬉しそうにしていたっけ・・・。
よく好きな鍋料理を作ってくれたっけ・・・。

そうやって、だんだん両親に対する見方が変った。
中学2年の時だった。

自分の身勝手な性格で、親を恨んでいたこともある。しかし、両親も未熟だったのだと思う。

しかし、いずれにせよ、私たち親子は、私が中学時代という、極めて多感な時代に、離れていた事で、互いを尊重し、互いに対する愛情が、確かに存在していた事を知った。
私とて、父と母に、愛情があったのだ。
少し歪(いびつ)な形となって、それは今でも存在し、今ではあの頃の父と母を、未熟という高見な見方で見なくなった。



わかっている。
そもそも子が親を評価するなど、愚の骨頂である。
だから私たち親子の愛は、少し歪なのだ。