あれから。

仙台在住の元上司のHさん。
我社の社長まで勤め上げ、引退して仙台に帰った方。
先の震災で、最愛の奥様と、お母様を亡くし、自宅を根こそぎ流され、お一人になってしまわれた。
ご自身も、車に乗った状態で津波に流されたものの、何とか一命を取りとめたのだ。





あの時の3月11日から10日ほど経って、ようやく私は、ピースウインズジャパンの力を借りて、避難場所だった、気仙沼中学校の体育館へマットレスを300枚運び入れたが、500名の避難者の中に、Hさんの知り合いがいたこともあり、避難所に訪れた際に、見覚えのあるマットレスがあるのを見つけ、現地支援者のピースウインズジャパンの方に聞いたところ、このマットレスは、大阪のある会社の住吉さんが、運送会社がなかなか仙台まで走ってくれない中、何とかして車を見つけ、ここまで運んでくれたのだと聞いたとの事。
先日、このHさんを、少しでも励まそうと、私の実家のある静岡県の由比で獲れる、釜揚げ「しらす」をクール宅急便で送ったばかりで、その件と合わせて連絡があったのだった。



Hさんは、現在仙台市内のマンションにお1人でお住まいなのだが、社長の時代には毎年送られてきていたお歳暮なども、世の中は薄情なもので、引退した後はピタッと減ってしまい、震災後は住所の移転などもあって、まったく来なくなったと言うことだった。
一人を除いて。
その一人が私。
私は、Hさんが社長の時代には、贈り物は一切しなかった。社長の時は、部下や仕入先などが、挙って贈り物をくれたり、連絡があったが、引退してからの数年間で、ぱったりなくなった。
私は、Hさんが我社で現役の社長の時にはそういうことは一切しなかったが、引退した後で、今までのお礼をするつもりで、毎年お中元とお歳暮を贈り続けた。
利害関係が消えてから、今までの感謝の気持ちを込めて、出来る限りの長い間、贈り物をして差し上げたい。そう思っているから。


震災後、Hさん始め、他の方々の行方や安否確認を、様々なルートやブレーンを使って確認したが、Hさんの奥様の訃報を聞いた時には、胸が引きちぎられるような気持ちになったものだった。
そしてHさんやその知り合いの方々が避難されている気仙沼中学校体育館へ、マットレスを送り込んだ。




当時、まだまだ冷たく冷える体育館の床に、ブルーシートを1枚ひいただけで横になっているお年寄りをニュースで見ただけで、耐えられなかった。



仙台をはじめ、被災地の現状を、私は生で見ていない。
あの惨劇を、日本人はみんなが自分の目で見て、焼付け、復興支援に努めるべきだという人もいる。確かにそれもその通りだと思う。




しかし、私は、あの惨劇が3月11日に起きた時、大阪の会社の机に座り、パソコンに向かって仕事していた。少し、グラグラ揺れて、なんだか変な予感がして、ヤフーを開き、あの惨劇を知ったのだ。
東北のいたるところで、多くの人が被災している真っ只中、私は何不自由なく、仕事して、子供達と夕食を取り、テレビを見て、津波の映像を見て、暖かい布団で眠り、暖かい食事をし、また次の日、会社に向かっていた。まったく不自由がない生活をしていた。
この関西で。何かしたいって思ったけど、日本中が全員ボランティアになっちゃったら、逆に国が傾いちゃうって思って、仕事を確りやることくらいしかできないって思ったのだ。
私なりに高額でも少々の募金。
仕事がら可能なマットレスの支援。
車を調達して、根性あるドライバー見つけて、水や食料買い込んで、とにかく避難所周りさせた。
それは遠くから何不自由ない生活をしながらだから出来た事。
遠くで暖かい物食べながら、テレビで震災の状況を見ていた。
口をポカンと開けて、テレビの映像を見ていたのだ。




そんな私がどんな顔して被災地に行けようか。
私なりの大金をはたいて寄付もした。
マットレスも、300枚運んだ。色んな持ち出しもあった。
何か出来る事をやったつもりだ。


でもだからってそれがどうした。そんな程度の事で、やった顔して現地には私は行けない。その権利がない気がする。
私はサラリーマンだから、時間を給料で拘束されていて、ボランティアで現地に飛び込む事も出来なかった。具体的に、体を使って何かをすることもなかった。
安全な場所から、行動を起こしただけ。


そんな私、不肖すみよし。被災地の話に触れるときは、少しだけ肩をすぼめ、俯き加減で、少し申し訳なさそうにしながら語るのが礼儀。


同じ日本国内ではある。国民なら自由にどこへでも行っていい。でも体を張って何かの具体的な支援が出来ない私が、あの場所に足を踏み入れるのは、何か、罪悪感を感じるのだ。
被災した方々と同じ目線で現地を見る・・・・。
実害のない私がそんなことしていいのだろうか・・・・・。


考えすぎかもしれない。


現地に飛び込んで体を張ってお手伝いするのは、それが出来る環境にある方にお任せしたい。
私は、震災当初も書いたが、サラリーマンとして小さいかもしれないが、確りと仕事をすることで、この国の経済活動を支える活動をする。
特に私の仕事は、民間の仕事とはいえ、この国の社会保障制度を支える、重要な仕事だ。私が10年前、会社に何度も何度も企画書を提出し、何度も何度も却下を喰らって、それでもあきらめずに申請し続けて始まった我社の事業だ。それを確りやることが、復興の小さな礎となっているのだと、私は信じている。



でも、現地にいつでもいける環境や生活、仕事環境にある方は、ぜひ、もっともっと被災地で、復興支援や、経済活動を行なって欲しい。



仙台にいるHさん。現在おひとりでの生活だろうけど、時々何か送ります。実家の静岡県の名物や、関西の何かでも・・・・・。
私からの贈り物や便りが届いた時だけは、昔のことを思い出して下さい・・・。