一年前の今日

昨年の11日は事務所でパソコン向かって仕事していた真っ最中だった。
突然のゆれを感じたものの、関西地域はそれほどの衝撃はなく、ただ、ダラダラと長く揺れたような記憶がある。長い地震という記憶はあるのだ。
私の会社の私の拠点では、揺れた後も誰も騒がず、とにかく忙しい業務の切り盛りで必死。2階の事務所に1人で居た私も、誰からも何の連絡もなく、家族に電話しようとも思わない程度にしか記憶していない。
しかし何か少し気になってインターネットのヤフーを開いてみた。
何と書いてあったか、正確には覚えていないが、「東北で大地震!」というようなことが書いてあった。少しすると関東でも云々と書いてあった。上司と生産側の本部などに、私のいる拠点センターでは被害はないという旨を連絡し、営業マン全員の安否を確認し、念のため家族にメール。
その時個人携帯を確認すると、Facebookで連絡を取り合う関東の友人たちの状況が分かった。
通常の通信手段が遮断された中で、ソーシャルネットワークが大活躍していた。


一応の確認を終えた中、我社の東北地域の拠点が大丈夫なのか、気になった。
一度だけ東北の社内の先輩に電話をしたが不通。
回線の混乱を助長するだけだろうと、連絡を取ることを控えた。
それに関西では直接的な被害がない為、仕事は完全に通常どおりに機能することが必須の状況であり、忙しく働く社員と協力会社に念のための指示をして、通常業務に戻っていた。



あんな大津波が来ていたなんて、まったく知らなかった。
恐ろしい事に、会社で仕事をしている状態では、テレビもラジオも付けていないから、この国のどこかで起きている現実を、まったく知らない状態だったことだ。
これは危険な事だと思った。
会社でテレビをつけるなんて、我社は許されていないし、ラジオももちろん禁止である。
仕事以外でインターネット検索するなんて事も許されていない。
当たり前の事だが、それでもある意味では本当に危険な事だと思った。
北朝鮮テポドン発射しても、日本のどこかに落とされても、私は私のすぐ近くでないかぎり、その事に気づかないのだ。
少なくともしばらくは何も知らない状態で、通常通り仕事しているだろう。誰かが外部情報を聞き、電話でもしてくれない限り、私は気づかないままという事だ。私の部下達も、生産現場の多くの方々も。



夜遅く家に帰り、普段より少しひっそりとする我が家を感じた。着替えながらテレビをつける。すべての局が特別番組を放送し、津波の映像を流していた。
私はこの時初めて日本列島に起きている惨事を知ったのだった。
食事を取ること忘れ、テレビの映像と次々に飛び込んでくるニュースに釘付けになる。その日はそのままリビングで徹夜で過ごした。


次の日に会社に行き、社員を集め緊急会議を行い、東北や関東に親類縁者の被災者が居ないか、連絡が取れないことはないかなどを確認。
問題がないことを確認すると、とにかく我々はこの東大阪で、確りと仕事をしようと伝えた。
被災していない我々まで、オロオロしていたら、日本の経済を破綻させてしまう。まして我々の仕事はこの国の社会保障制度を支える土台のような仕事なのだ。私たちサラリーマンが今やる事は、東北に行ってボランティアに参加する事ではなく、しっかりと経済活動をすることで、国の経済の小さな一端を支える事であると、そう指示した。



日中、車のラジオで福島第一原発の水素爆発を知った。



私は昔、広瀬隆さんの原発に関する書物を読み漁った事があり、水素爆発を起こした原発の原子炉で何が起きているか想像できた。
その日の夜にもニュースや特別報道番組で、原子力村の詐欺師達が、自信の利権を守る為、嘘八百を並べているのを聞いていると、この国の終わりが近づいているような気がした。


「未曾有の惨事」
「想定外」
「現時点では問題ない」
「直ちに人体に影響はない」


そう言って、巧妙に視聴者を騙してゆく原子力村のダニと無力な言葉を並べる政治家。
それでも今は誰かを批判するより、自身が何ができるか、何をすべきか、その事に思考を巡らせた。


『ある物』をピースウインズジャパンと協力して、埼玉県で一度積みかえて、ガソリンも、水も、食料も確保できない東北へ運んでもらった。
4トン車にパンパンに満載し、水や食料も積み込んで、出発してもらう。
避難場所であった気仙沼中学校の体育館には600名の被災者がおり、冷たい床に、薄っぺらいブルーシート一枚と、ギリギリ与えられた1枚の毛布を2つに折って横になる高齢者が大勢居るとのことだった。


現地に行けない私は、とにかくできることを探した。お金も私なりにいっぱい振り込んだ。

自分の仕事を確りとしながら、その横で同時にできることを行なった。
でも何をしても、何の効果にもならないのではないかというほど、事態はどんどん深刻になっていった。



東京電力は記者会見で、巧妙なウソを繰り返していた。
私はシロウトながら、広瀬さんの本で知りえた知識によって、とっくにメルトダウンしているだろうと、ブログに書いた。
少なくとも行く末、100年は原発の収束はないだろうとも書いた。
決死隊のように、東京消防庁の勇士や、原発内の職員、協力会社の職員、そして自衛隊が、身を危険にさらして放水し、そして復旧作業に従事していた。
原発メルトスルーしていたのに、再臨界したり、核暴走しなかったのは、この時の勇者のおかげだろう。
それぞれ妻も子供も、家族が居たであろうに、自身の使命を運命と捉え、勇者達はこの国を守った。



具体的なことは何も出来ず、ただ通常通り仕事をするしかなかった自分に、恥ずかしさを感じながら、自分がすべき事は、まず、確りと働く事だと自分に言い聞かせた。



日本に原子力爆弾を2発も落としやがった鬼畜米兵が、トモダチ作戦といって真っ先に放射線による汚染の心配がある東北に乗り込み、水や食料を避難所に運び、いたるところで日本人を救ってくれた。
大嫌いだったアメリカという国に、目に涙を浮かべて感謝した。そして、こんな時な世界がひとつになれるのになあなんて、センチな気分になり、同盟も悪くはないと思った。どこの国に行っても、本当は人間はみんな優しいんだって思ったりして。
アメリカ以外にも、多くの国が瓦礫の除去や行方不明者の捜索を行なってくれた。



積上げられた瓦礫に向かって、「おかあさ〜〜ん・・・・」と母親を呼ぶ子供の姿を見て、胸が引きちぎられる思いがした。周りの大人が抱きしめる。強く抱かれながらも、遠くを見つめて母を呼び続ける子供を見て、これは自分の事でもある。他人事ではないと実感する。薄皮一枚で、私ではない人の身に起きてしまった事なのだと。



次々に新しい津波の映像がテレビに流れる。
私は背けたい目と必死に戦いながら、その映像を見続けた。目を背けちゃいけないと思った。知る必要があると。惨劇を知る必要があると。そう思った。



ピースウインズジャパンから無事に気仙沼中学校に運び入れることが出来たというお礼の連絡をもらった時は、ずっと打ち合わせしてきた担当者の方が、実際に現地に入っていた時だった。電話の向こうでその人が、会社の住所と苗字しか教えていなかった私に、私の名前や住所や、会社名を改めて教えて欲しいと言って来たが、カッコつけて教えなかった。
あの電話が最後だった。体育館の被災者が、本当に喜んでくれている事を聞かされ、何か少しだけ手助けさせてくれてありがとうって思った。



この一年間、いろいろな事があったが、悔いのない人生を送りたいものだと思った。
今の私は本来望んだ生き方ではない。だから余計にそう思う。守るものがあるから受け入れている現実。しかし、悔いのない人生を送る為には、また冒険すべきかもしれない。
最近この周辺では、隠れて人の揚げ足を狙ったり、コソコソと人のあら捜しをする人が居る。
一方で、私を救おうとして、暖かく指導してくれるような真摯な先輩もいる。
私はどんな人もきっと本当は、人のためになりたい、何か人に喜んでもらえる事をしたいって、そういう気持ちがあるはずだと信じている。



忘れてはいけないこの災害に学ぶ。
一年が経過したが、さらに時間をかけて学ぶ事が多いはずだ。
原発もそのひとつ。
この期に及んでまだ、原発を推進する人がいるから。
原子力爆弾を2発落とされて、地震原発事故起こして、まだ学ばないのかと思う。私はこれ以上、核を弄らない方がいいと思う。
福島第一原発を最後にして、原発はもう止めたい。お願い止めて。
停電も我慢するから。お風呂とかはガスにしよう。点火系の電気系統も電池式にしよう。
私の子供の頃は、もっとしょっちゅう停電だったんだから。
冬は、暖炉を推奨しようよ。ガスも電気も、もっと減らせるから。
もう少し、穏やかに経済を動かそうじゃないか・・・・・。