先生

 VOICES

 君はとても大切な 僕の友達だから
 何を悩んでいるのか そーっと話て欲しい
 一人にしてほしいと さびしい目をしないで
 心開く勇気を 思い出してほしい

 君の声 僕の声
 伝えあおう 心の声
 響き合って わかり始めて
 ハーモニーになる

 ささいなことで僕が みんなと離れた時
 何も言わずにきみは 隣にいてくれた
 さりげなく 肩並べ なにげなく 僕を呼び
 いつのまにかみんなと つないでいてくれた

君の声 僕の声
 いろんな声が あることを
 認め合って 確かめ合って
 ハーモニーになる

 u wo uwo uwo u wo wou wo
 u wo u wo u wo u wou wo u wo
 u wo u wo u wo u wo wo u wo u wo

混ざり合って やさしさになって

        
 ハーモニーに

 ハーモニーに

ハーモニーになる





息子の小学校5年生のときの合唱曲。
確か学習発表会とか、そんなイベントだった気がする。

休日に行なわれた小学校の発表会で、校長と自治会長かなんかがパイプ椅子に座り、膝の悪い近所の祖父母の皆様をシート一枚ひいただけの冷たい床に座らせている事に腹を立て、先生に文句言ってうるさい親だなあと、ひんしゅく買った発表会で、幸先の悪い始まりに私自身、テンション下がっていた発表会。

だったのだが、子供たちの歌や劇、そして社会化見学の発表などを聞いているうちにイライラも忘れ、いよいよ息子の合唱の時が来た。



冒頭の歌は『VOICES』(ヴォイシーズ)という曲で、担任の先生が選曲したとの事。
合唱が始まる。
そろそろ照れくささを覚えた頃の5年生男の子も、少しだけお姉さんになってきた感のある女の子も、とても大きな口を開けて、指揮する先生の方を見て、左右に体を揺らしながらリズムをとり、みんなが一緒になって、一体になって歌っている。
息子の強太郎も、見たこともないような真剣な顔で、見たこともないような大きな口を開けて、目を見ればわかる見たこともないような真剣な眼差しで歌っていた。


私はそれまで、子供の行事で感動した事なんてなかった。

「へえ〜〜」とか、「ほほ〜〜」という程度の経験はあったが、この時の合唱は違った。
まさに『大感動』に尽きる。他に言いようがない。
とめどなく溢れてくる感動の涙。拭おうともせず、ダダ漏れ状態。全身、肌が感動で、針を刺されたみたいにチクチクしていた。



その夜私は、担任の先生に手紙を書いた。
若くてぽっちゃりした先生で、初めて担任を持ったらしかった。
情熱を込めて生徒達を指導し引率してきたのだろうと思う。それが子供たちの姿に確りと表れていた。あの瞬間なら世界一の合唱だったはずだ。
手紙に先生の指導が大いに実っている事、親として息子を含めた子供たちが成し得たハーモニーに心から感動した事、そして全員が指揮する先生の方をみて、まったく同じリズムで心ひとつになって歌っていた事への感動。そしてそれらへの感謝を伝えた。
先生は返信までくれたが、その年、終業式と共に他の学校へ転勤となった。
最後の日に先生が我が家を訪れてくれた。抱き合い互いに涙を流す先生と息子に、妻と私ももらい泣きした。久しぶりに先生という存在に、素直に感謝できた、そんな先生だった。




私たちの子供の頃は、学校の先生と言ったら絶対的な存在だった。
体罰なんて全然当たり前だったし、男の先生はピンタかゲンコツ。女の先生はゲンコツかモノサシなどで叩かれた。
親も先生に対しては敬意を表していて、今で言うモンスターペアレンツなんて、一度も聞いたことなかった。
昔は大学を卒業している大人の方が少なかった。
うちの両親も高卒。父は定時制の夜学である。新聞配達して自分で学校を出た人。
そのような事が決して珍しくなかった時代に、学校の先生は大学を出て教職に付いた先生が多かったのだから、世間では『大学での偉い先生』という立場で見られたし、そういうこともあってか、社会的にも道徳の象徴的な人として見られていた側面があったように思う。


現在では、大学に行くことは珍しくなくなった。
大学の種類も数も増え、日本人は経済的にも豊かになり、社会にも仕組みが出来上がって、借金してでも子供を「大学出」にする事が出来る様になった。だから両親が大学出なので、親がそもそも学校の先生を尊敬していない。
さらに先生の方も、子供に性的ないたずらしたり、誰もが一見して分かるほど精神に異常をきたしていそうな先生がいたり、日教組が馬鹿げた方向へ向いていったから、社会的な地位が下がり、尊敬心を集める事もなくなってしまった。
完全に税金で食べている『先生』という職業としてしか見られなくなっている気がする。
そもそも先生という職は、普通の職業とは違って、「聖職」と言える。教える立場のものは、ある意味で「私」や、「個」といった、プライバシーやプライベートをも一部、「公」(おおやけ)化することを強いられる職業と言える。一般の民間企業のサラリーマンとは立っている位置も、発する周波数も違うのだ。
経済活動で利益を確保する事に励み、ある意味で金を稼ぎ出す事をすべてとする企業の戦士と、社会の将来を担う子供たちに、学問と正義と道徳を教える人間とは、まったく違う。



私にも節目節目に、強烈な印象を残す、少しづつ人生を教わった先生がたくさんいた。

小学校1年2年の上杉先生は清潔感があって、やさしく笑う、美しい先生だった。怒ると怖かったが、お袋よりは怖くなかった。

3年生の富山先生は、小太りで山姥みたいな怖い顔して、プリントを配る時に、ベロッと指に唾つけて配るのが気持ち悪く、配られたプリントの角には、指の跡の形をした唾の跡が残っていた。時々物凄い優しい顔して、嬉しそうに褒めてくれた。音楽の好きな先生だった。

4年生の時はもう一度上杉先生になった。1年の時と違って、少し厳しくなっていた。この頃からよく親が学校に呼び出された。
雑巾投げてガラス割ったり、女の子のスカートめくって泣かれたり、喧嘩して男の子を泣かせて、時々転ばして擦り傷負わせたりしたからだったと思う。

5年生のときは一番厳しかった矢崎先生だ。物凄く目が悪くて、3センチくらいある分厚いメガネかけていた。普段は全然見えない事ばかりなのに、教科書やノートにマンガ書いているのだけはいつも見えていて、ツカツカと歩いてきて「ゴンッ!!」と細くて硬い指を尖らせたゲンコツを喰らった。明らかに角張ったタンコブが出来た。
この5年生のときが、一番学校のガラスを多く割った1年だったと思う。たしか40枚くらい割った。
親父と一緒に矢崎先生の自宅に行き、玄関に立ったまま、親父が謝りながらも、男の子だから、人に怪我させるような事以外なら、好きにさせてやってくれ・・・・と先生向かって言い、矢崎先生がメガネの奥の小さな目を真ん丸くして驚いていたシーンを覚えている。

6年生のときの安田先生は、私に人生の価値観や価値判断を示してくれた先生だ。作文で小学生ながら、水泳で2度の海外遠征に行っていた私が、「自分の力で海を渡った!」と書いたら、教室でみんながいる前で、先生の机の横に立たされ、

「おまえが水泳が速くなれたことも、海外に行けた事も、水泳の試合で全国へ遠征できる事も、何もかもすべてお前の両親のおかげなんだぞ!」

とド叱られ、恥ずかしさと自分への情けなさでぐちゃぐちゃに泣いて、先生も泣いて、周りの生徒も泣いていたあの日。
あの日を境に、生きることは自分だけと言う事じゃないって事や、親に甘え思い上がっていた自分を知ることになった。

高校3年の担任だった宇田川先生は、私をトコトン活かしてくれる先生だった。今でも上京したときには他の生徒と一緒に、酒を呑む。
先生は高校時代の私と妻のりさちゃんを、当時はお付き合いもしていなかったのに、この二人は結婚するべきだと、勝手に思い込んでいたという話はビックリした。
卒業してから15年経過して再開した日にも、先生は車の中で私と妻に、
「お前達はとっくに一緒になっていると思っていたのに」
と言われた。
まあ、結局その半年後に本当に結婚したけど。


先生。
先生と言えば、私そのものを創った先生。
米川英則先生。


人生の師。
恩師。
親父。
コーチ。


そして米さんの事をそう思っていいるのは私だけではない。過去育ててきた多くの生徒が、私と同じように想っている。