妥協

『妥協する』という言葉は、あまり評価されない言葉だ。
特に仕事に関する事では、「妥協した」なんていうと、上司は怒るだろうし、妥協の産物なんて言葉もあって、妥協して出来上がった仕事には、いい結果はないと、誰もがそう思うだろう。


マチュアスポーツの現役だった頃、練習のメインセットなどでは、自分のイメージするタイムやベースコントロールに不満があると、もう一度最初からやり直してもらうこともあったし、当然逆に、コーチの米川先生も妥協せず、
「やりなお〜し!」
と言って、苦しかったインターバルセットを、もう一度最初からやり直させられるなんてことも、全然珍しくなかった。
自分が調整をかけて、照準を合わせているレースに、テンションをピンピンにかけていくには、それまでのハードトレーニングによって、筋力的にも、パワー面においても、技術的にも、最高の仕上がりを目指すのだ。
当然、そのトレーニングに妥協などは許されないし、妥協することを考えている者は、その環境においてひとりも存在しないだろう。
高い位置を目指す者は、妥協しないのだ。
これはスポーツも、芸術も、金儲けも同じだろうと思う。





しかし、私は結婚して15年。
意見の相違や価値観の違いを乗り越える上で、ひとつ大きく学んだ事柄がある。


それは『夫婦とは妥協の産物である』という思い切った考えだ。
しかしこの意味は、冷め切った夫婦間を示すものでもないし、倦怠期を表す意味でもない。
好むとか好まないとかの次元ではなく、違う環境で育ったもの同士が、すべての考えで一致すると言う事などありえないわけで、それでもいつまでも緩やかに愛を育み、互いの尊敬を高める為に、自己犠牲の精神を養う必要があったと言う事を、『妥協』という思い切った言葉に置き換えるという意味である。


要は、愛の為に自己を犠牲にするという事であり、哲学的にはそもそも、『愛』とは与えるという事だけにその意味が存在し、見返りを求め期待する時点で、それはすでに『愛』ではないというくらいだから、大好きな相手や大切な人や、真の目的を成す為には、

『妥協』=『自己犠牲の精神』

という例えを感じるのである。



過去、夫婦の間で意見の相違があった時、物事に妥協する事に慣れていない私は、妻と徹底的に議論した。
しかしとりわけ話の上手くない妻は、私の意見に対しても反論や反応がほとんどない状態で、だんだん一方的な話になっていく。
節に時々妻から出てくる言葉は、それまで私が積上げた議論を根底からひっくり返すような議論であったりして、私の怒りは頂点に達する。
しかし怒りを感じる自分を、俯瞰して見れば見るほど、自分は愚かに思えてきてしまう。


私の考えで、妻を洗脳しようと思っているわけではないのに、いつの間にか議論を重ねていくと、その論法は結局、とどのつまり誰が正しいか、どちらが折れるか・・・・と言うような論調に傾き、本来の、『何が正しいか』という議論とは違う方向へベクトルが進んでしまう。
つまり、いくら話をしても、話す事そのものをどれだけ積上げても、『何が正しいか』という道を見出す事は難しい。

過去、そんな事を何度も繰り返し、その度に私は自己嫌悪と、妻に対する罪悪感に襲われた。



そして思い切って受け入れる覚悟を決めたのだ。
それは『妥協への道』。
妻に妥協する。
いや、妻への不満を我慢すると言う意味ではない。
言っておくが私は妻が物凄く好きだ。
まったく飽きない。
今でも週最低2回。

要は、意見の相違や、価値観や人生観の違いが、もしたまたまその時に見えても、答えを議論で急がない事である。
しかし私にとってはそれは、その時に妥協できるかどうかの、自分の精神との戦い。
マチュアスポーツの育ちが多感な時代に、体と心に染み付いている私は、一刻も早く結論を出そうと意気込む。



夫婦の間に結論を急げる案件はないのだと、『妥協』する気持ちをもてるかどうかが、私の夫婦間における自分への挑戦だった。



そしてサラリーマン生活の中で、夫婦生活で学んだ『妥協』テクニックを、マネジメントのPDCAをまわすテクニックとして活かす事が出来た。
結論を急ぎすぎる私の傾向は、俯瞰して見るからこそ見える世界を見逃す事があった。
しかし時間を妥協し、急ぎすぎる若者への接点を妥協によって引き伸ばす事によって、マネジメントを俯瞰して取れるようになった。



こうしてみると私にとっての「妥協」は、悪いことばかりじゃなさそうだ。
簡単に言うと、落ち着いて、静かな心で、精度の高い、答えを導く為に、『自己の精神に妥協を使う』という感覚だろう。



子供たちの教育にも、10に1くらいは、上手に妥協した方がいい。
いや、10に3くらいでもいいかもしれない。
大切な事は、ゆとりを持って妥協をテクニカルに使いこなせれば、ますます俯瞰して物事が見えるようになるということだ。