記号化

現代。

私はこの時代が好きじゃない。はっきり言って嫌い。
現代は呪われている時代だと思う。

人は儲けを追及する利益至上主義経済に参加する事を半ば強制され、そのほかの道を歩む事をほぼ許されない。

本当は、一生絵を描いて生きていきたい人もあろうに。
歌だけ歌って生きていきたい人もいよう。

絵を描いて生活したければ、本気だったら、やれるはず!やればいいとか、そう言う意見もあるよね。
分かる分かるけどね。


企業もマスコミもメディアも、とにかくギャンギャン吠える人が目立ち、むしろ人の気持ちなど配慮せず、ないがしろに厳しい言葉を浴びせ、人の言葉を切り捨て、罵詈雑言意見を言っていれば有能と思われる節もあって、企業では特に上席になればなるほどそのような傾向がある。特に中途半端な大きさの企業に。
現代では話の分かる上司なんか、ダメ上司の部類に押し込まれる傾向。
会議の度に部下を叱り飛ばし、死ねとか、カス!とか、ボケ!とか、人を追い込む言葉でしか、指導が出来ない者が目立ち、生き残っちゃってる。
特に中途半端な企業に多い。


ある方のブログで、家族が仕事で疲れている記事を読んだ。
かわいそうで読んでいて涙が出そうになった。
誰か書くと、もし誤解だったら嫌なので言わないけど、私なりに思うには、きっと本人は、体調の事も手伝って、とっても疲れているのだと思う。
きっと配慮のかけらもない職場で、若さを利用され、文句を言わないことをいいことに、都合よく使われちゃったのではないだろうか。
私の周りでも決してない話じゃない。かわいそうに。きっと傷ついているんだろうな・・・・・。
私の考えすぎである事を祈るけど。たいしたことないよって、勘弁してよって笑われる事をいのるけど。




傷と言っても頭と心は違うけどね。




現代は冷たい上司が増えた。
それにあからさまになった。
何でも同じペースでやれないとダメ。
常に同じ力量を要求される。
向き不向きなど考慮されない。
できないならやめろ・・・としか言わない。






私は絶対そんな上司にはならない。
できることの限界はあるかもしれないけれど、いつも部下の顔を見て、目を見て、洞察する。
心の波を引き寄せて、明るい顔に誘導する。
それが上司の本来のマネジメントだ。
アングロサクソン発信の、誰にでもできる統一基準ISOもいいけれど、日本人には独特の共存手法があったのになあ。


会社は家族だ。
それぞれがそれぞれの生活を、互いに守りあう為に、同じ目標に向かって、それぞれに合った方法や立場で、互いに協力し合って能力を最大化するのが会社だ。


しかし現代は金儲けの上手いやつばかりが偉いという。
金儲けが上手くなり、金儲けに対する貪欲さを身に付ける為に、セミナーがいっぱいある。
金儲けが成功としか思っていないセミナーに、なんの意味があるというのか。
カチカチと銀行の預金パロメーターの数字が大きくなっていく事を最大の価値と謳い続ける。

そして、人よりいかに情報を保有しているか、そしていかに情報によって正義を振りかざせるか、そこに正義があると思い込んでいる。
完全に情報化された世界で、本来ならそこに確実に息衝いていた生ものの人間の感情を含んだある出来事が、加工されて、種類別にされて、記号に変ってしまった物・・・・。それが情報だ。
真実は情報の中にはない。
しかし現代人は、情報化された記号の寄せ集めの中にこそ真実があると信じ込んでいる。
だからそこには、個の正当化はあっても、公の正義は存在していない。
現代の人が正義と信じ込んでしまっているものは、実は個の正当化でしかないのだ。
情報は記号でしかない。
そこに人間の息吹はない。
本来情報とは、乾燥ワカメを水で戻すように、知り得た時から、その情報の背景、前後左右をイメージし、吟味噛み砕いて、本来の水分を含んでいた最初のワカメのように、姿を元通りにする、洞察能力を以って獲得しなければ意味を成さないものなのだ。






マネジメントの最大化に必須なのは、『人を見る目』である。
しかし実は現代社会において、この『人を見る目』のような能力を、組織的に教育するプログラムも存在しないし、それを必要と考える人もいなくなってしまった。
しかしかつては、このような能力を高める事への涵養は、かなり優先順位の高い課題であった。
そして実は、コーチングのセンスの中に、この「人を見る目」を徹底的に鍛える必要性と、それを元来保有している人物の成功(実績)がリンクしている事は、あの世界では当然の事として認知されている。
しかし現代は、もっとも優先順位の高い情報は、記号になってしまった。

「数字で示せ!」
「データを出せ!」
「根拠を数字で示せ!」
「目標を数値化せよ!」

棒グラフのように、一見して誰が見ても分かる数値管理が、実は人間を一番ダメにしている事に気付かない現代の中途半端な企業経営者やサラリーマン。
これは完全に現代情報化社会の亡霊に取り付かれたゾンビである。
そのゾンビからは、情報という記号を取り外してしまうと、何の役にもたたない腐敗した肉体だけが残る。人の魅力もなく、深さも感じられない。
いつ、どこで、何が、何個、どのように、販売されたか・・・。
それをあらゆる切り口でデータ化し、数値で示す。
結構毛だらけ猫灰だらけ。
けど、そこには消費者や顧客、あるいはそこに関わった人々の物語はない。
記号化された情報には、人の物語は一切示されないのだ。
しかし私は思う。
真実や正義とは、このような記号化された情報の中には存在していない。
『生もの』の取り扱いに長けた人にしか、真実は見えないのだ。



でも、そういうのが決して上手くない若者もいるんだよ。
この市場原理主義現代の生活に馴染めない子がいるんだよ。
俺はむしろ、こんな世界、馴染めない方が当たり前だと思うね。
どこいったって腹黒いやつばかりでさ。
こんな世界でやっていけんのかって、みんな最初思わなかったか?
普通思うんじゃないかなあ。
感受性が豊かな人だったら、なおさら受け入れがたい世界が現代だと思うだけど。
こんな世界。



実は私は執念深いかもしれない。
誰かに傷つけれらたことを決して忘れない。
そしてわりと簡単に傷つく。
なんでもない顔しているけど本当は凄く悲しかったりしている。
思い出すと怒りが込み上げるほど。



だからこそ人を傷つける事には臆病で敏感。
そして、気をつけていても傷つけてしまった事、それも忘れない。
その傷を癒す為に、少し長い時間をかけて癒す努力をする、
いっぺんに解決しようとするのは押し付けでしかないから余計に傷つけちゃう。
何が正しいか、誰が正しいかではなく、どう生きるべきか・・・だけなのだと思う。



世間に恫喝され「力」で襟首つかまれて引きずりまわされ、ゲンキンな族に囲まれて。
離れて暮らす家族を思いそっとひとりで涙する。
心をぐちゃぐちゃにかき回され、自尊心を深く傷つけられ、心の傷と共に、体をも悲鳴を上げている。


以前、ブログで「会社は社員と社会の物だ」と書いたら、「会社はオーナーと株主のものだ」と言い返してきやがった野郎がいた。即効で、「さくっ」と削除してやった。
繰り返すが、会社はオーナーの物ではない。株主のものでもない。
株は、儲ける為に買うのではなく、企業を支援するために買え。
オーナーは社員の幸せの為に会社を向上させる。社員はオーナーを含めた全社員と、そこに関わるすべての人々、仕入先もその家族も、そして顧客を含めた社会の為にあるものだ。
私の勤める会社の創業者は、自分の創業した会社を、社員とそこに関わる人々と、社会貢献の為に発展させるのだと、本当の理念として謳い指導している。
企業の利益活動は、社会貢献の為に行われるものであり、その利益の分配は、会社に関わる人々と、社会保障という社会の富の再分配に使われるという理念である。
企業存在の正義が、まさに此処にあると思う。私はこのような創業者の企業に居させてもらえる事は、誇りである。



それをわかったような口効く現代アメリカかぶれの中年が、「会社は株主のものだ!」なんてぬかしてきたけど。
でもその考え方は『大間違え』ですから。



私一人の力は小さいけれど、せめて自分の職場だけは、部下たちがする様々な努力を、絶対に『実らせてあげたい』。
そういうマネジメントは、部下の人生を変える事だってあると信じている。
別に、良い子ちゃんになろうってわけじゃないけど。
死んだ師匠に、そう育てられたからだから。今でもそう信じ、そうしなければいけないと信じている。


世間は冷たいから。
震災で『絆』(きずな)っていいながらお涙ちょーだいしておいて、東北のガレキは受け入れたくないっていう都道府県ばっかりだし。
島田市だっけ、私の田舎のすぐ横の市。
住民がものすっごいガレキ受け入れ反対していたよなあ。
あっほだなあ。
みんなで助け合うしかないのに。
そう。
そんな世よ。この世は。


だからせめて誰かひとりだけでも、わたしを愛してくれる人。
わたしは子供を巣立たせたら、その人とともにひっそりね。生きるのよ。
教育にお金使い果たした後・・・、
わたしの先祖からの家系文化を伝え終わったら・・・、
小さな古い団地の1階で、菜っ葉食べてひっそりね。
もうきっとその頃は太ってないと思う。