自殺

裁判所は【いじめはなかった】と判決を出した。

学校側も子供の自殺の原因は【いじめ】ではなかったと言っている。
しかし、子供の両親の同級生親子への聴き取り調査では、多くの子供達からの【いじめ】の実態が報告されている。
裁判官は本人の遺書には直接いじめが原因だとは書いていないと言う事も、判決理由だという。
まあ、裁判所と裁判官なんて、十中八九アホな世間知らずが多いのは重々承知だけど、まあだから要約すれば、現実的にはクラスで【いじめ】があって、それは周りの子供たちも薄々知っていたし、見て見ぬフリしていた訳だけど、法的にそれを立証しようとすると、証拠は遺書とか、証言しかなくて、クラスの子供を裁判に出すわけにも行かないって事で、真実に近い証言は、ほぼ取れない状態なので、自殺の原因が【いじめ】だとまでは言えないって判決になっちゃってるわけだ。


しかし私は子供の残酷さを知っている。
私自身、何度もいじめに合った。
私はスイミングスクールで、特に小学校の時に、【無視】されたり、【お前は村八分だ!】と言って、誰にも相手にされなかったりしていた時期があった。
色んな嫌がらせを受けたし、見事に全員が私を無視し、俗に言う【シカト】状態だったこともある。
理由は、小さいくせに早い選手だった事と、チョコチョコと動き回り、ちょっかいを出し、ウザイ子供だったからだと思う。
つまり、私にも多かれ少なかれ原因はあり、周りの子供にも倫理観が欠けており、無視したり嫌がらせをする事が悪いことだと止める人もいなかった。それどころか全員で団結して私を村八分にしたのだ。
だが、実際、子供なんてそんなもんだ。しかしそのうちだんだんと、いじめはなくなった。
私も学び、振る舞いに注意した事と、周りの子供たちも、少しは罪の意識を感じ、また、飽きてしまったのだろう。
しかしそうやって私をいじめた子供たちは、その後私が東京へ行き、日本一となって帰ってくると、まるで手のひらを返したかのように私に媚び、サインしてくれなどと言ってくる始末だったから、人間のウンザリするほどの現金なところもよく知っている。心の中で私は、昔さんざんいじめたくせに、よく平気でニコニコ媚が売れるものだと冷たい目で見ていたものだった。



自殺してしまった子供が、自分で命を絶ってしまうにまで追い詰められた原因に、いじめがあることは容易に判断できる。
子供の社会なんてそんなもんだ。どこにでもいじめが存在している。
要は、いじめるやつがいて、それ以外にでも、それを救ってくれるやつがいなかったのかって事と、先生がまったく空気を読めず、集団としての子供たちの中で、不穏な空気を感じ取る事が出来なかった事、そしてさらに言えば、不穏な空気・・・・・・それを両親が見抜けなかったこと・・・・残酷だが、やはり両親にももっと感受性を研ぎ澄ませていて欲しかった気がする・・・・・。


クラスの子供たちに言いたい。


おまえらみんな知ってるんだろ?
誰が、どんな風にいじめていたか。
見て見ぬフリしていただけなんだろう?
おまえらがみんなで、ほどほどにしとけよって止めなかったから、死んじゃったかもしんないんだぜ!?
調子いいときだけ子供面してとぼけてんじゃねえぞ!




子供は大人よりも残酷なところがある。
そして、自分が子供である事を大人よりも理解している。
自分は子供だから弱いんですよ!という信号を送り、振る舞いをして、強くて大きい大人に媚びへつらう。
生物学的にも、現代社会的にも、そう出来ているし、そういう風に進化してきたのだから。


いじめは社会から消えない。
それは大人の社会にもあるから。
子供だけがいじめてるわけじゃないし、子供だけがいじめられてるわけでもない。
大人の方が何倍もいじめられて自殺している。
大人は、国を支える仕事についているものでさえ、国民をいじめる。
警察と言う国家権力も、時に市民をいじめる事だってある。私は何度もそういった場面に遭遇しているし、実際に刑事には部下を陥れられた。


誰かを攻撃する事でしか自己の確認が出来ない人間は、現代社会だけに存在しているわけではない。大昔から何一つ変ってはいない。昔から人間とはそういう生き物だ。だからそれらを恥じ、後悔し、反省し、倫理を求め、哲学を構築し、法を定め、道徳を重んじるという精紳文化が存在してきたのだ。



子供たちを犯人扱いは出来ないだろうが、私は自分の子供のクラスでこのようなことが起きたら、本当に悩み苦しむだろう。子供に何と言って指導し教育するべきか。それに心底悩む。
我が家もいじめについて子供たちと議論すべきだ。
そして少しでも学校の現実を大人が知るべきだろう。



ただ・・・・・、
今回の裁判官の判決は間違っている。
自殺の原因は【いじめ】に決まってる。少なくとも原因の大きなひとつであることは、逆に常識である。子供が自殺する理由なんぞ、同じ子供からの冷たい仕打ち以外に、そこまでする原因などない。
学校はまず、これが自分たちの責任において、自殺の責任が学校にあるのだと勇気を以って認め認識する事である。
矢印を自分に向け、なぜ社会からいじめが消えず、なぜ学校からいじめが消えないのか、考え悩み、気を張り詰めて教育に当たることだ。
教師の職は【聖職】である。
苦しく子供を生み出す環境を提供しておきながら、それを自分以外の誰かのせいにしようとするのは、聖職者のやることではないはずだ。
しかし、そうは言っても、問題はいじめがあったかなかったかについて、社会が確りと向き合って認識する事である。
親や、教師の不備について論じるのは、私にも限度が必要だ。
当事者の苦しみは計り知れないからである。



そして親も、子供が学校でどれだけつらい事があっても、家に帰ってくれば救われる・・・・・そんな家庭を作る努力をもっと徹底しなければならないだろう。
深く暖かい愛情を持って子供を抱きしめてあげなければ。
無償の愛で、全身全霊を持って子供の心を洗濯できる人格者を目指さねばならないだろう。

きっと両親は、後悔してもしきれないほど、傷ついているだろうから、発言は控えるが、やっぱり一番気付いてほしかった。しかし、そんな事は私が言うまでもない、親にはいまさら何も言えない。子供は親には【良い子】と思われていたいものだ。きっと親には何も言えなかったのだろうし、親には分からないように振舞ったのだろう。
子供にとっては、親は一番近くにいるけれど、一番隠してしまう存在なのだ。自分がいじめられているなどと、平気で親に言える子供がどれだけいるだろうか。
いつもの陽気な振る舞いであれば、親もなかなか気付けないだろう。
実に悲しい。
本当に残念だ。


親であれ、先生であれ、教える立場に立つものは、常に聖職であり、無償の愛でなければならないのだろう。