屈辱



最近は屈辱感を感じる事も随分減ったと思う。

もう歳をとってきているのかもしれないなあと、ふと思う。

若い頃はしょっちゅう、屈辱という気持ちを味わった。

若い頃は何を言われても、何をされても、いちいち屈辱に感じる事ばかりで、いつも何かに対して怒りを抱いていたような気がする。

一般論に対しての怒り。
普通という概念とそれを強要する世間に対する怒り。
自分の意にそぐわない言動への怒り・・・・・。

結局すべては若気の至りである。
若い頃は、問題の原因が自分にではなく、自分以外にあると思い込み、原因を他者や、他物のせいにしていた気がする。
矢印を人に向けるのは一番簡単な事だ。
自分に向ける勇気がある人こそが、物事の本質に近づける。






大阪転勤し今日で丁度3年が経った。
中途で現在の会社に拾ってもらって14年が経つ。
ほんとに早い。
私を面接で会社に入れてくれた先日まで役員だった方も、9月末で役員をご退任された。
あれから14年経ったのだ。



30歳で中途入社した私は、それまで一度もまともに会社組織で働いた事もない人間だったから、自分が会社と言う組織で通用するのか、役に立てるのか、まったく自分でも想像が出来なかった。
生意気で世間知らずで、のぼせ上がった人格の当時の私。
入社してみると、18歳の高校卒業したばかりの新入社員と同期入社として扱われ、周りには20代後半の若手がバリバリ活躍している状態で、すでに人生を長く生きている私は、年下の優秀な社員から仕事を教わるというスタートとなったのだ。


中途入社してからの私は、年下の力のある社員に仕事を教わり、年齢が下の社員が、すべて先輩社員であるという状態であり、大げさかもしれないが、当時の私にとっては屈辱極まりない毎日でもあった。
年下とはいえ、本当に世話になった人も居たが、中には年上の私を蔑んだ目で見て、失礼な言動で扱い、俗に言う【ハブ】(仲間はずれ)のように扱った者もいた。


自己研鑽という言葉があるが、私より若くても、自己を見つめ、私に謙虚に接してくれ、実際の仕事も実力がある社員もいたが、一方で、非常に生意気な、自己顕示意欲のみに支配され、しかしながら、実質的には仕事で大失敗を繰り返し、しかもそれを結局人のせいにするという社員もいた。
後者のような社員は、私にいつも失礼な態度をとったが、このように色んな社員を見ていると、私は実に学ぶ機会となった。
中途入社という機会は私にとって、以前の私自身が、そのような生意気な若者で、失礼な所作ばかりであったのではないかという、自身の問題に気づき、自分を見つめ直すべきだという、大いに反省する為の機会ともいえる経験となった気がする。




当時私が感じた屈辱感は、自分に力のない私が、結局虚勢を張っていたにすぎないという事を、結果的に後に示唆する為の、出発点だった気がする。
人を見、会社を見、集団を見、客を見、自分を見たとき、自分の愚かさに気づいた。
良い社員にも悪い社員にも、いやむしろそのような勝手なくくりすらなくし、私に関わってくれているすべての人々への感謝の気持ちや、私たちの会社を支えてくれている仕事をいただけるお客様への感謝の気持ち、そして私に毎月、仕事をしようがしまいが、きちんと給料を払い続けてくれる会社の創業家、そして私に幸せを常に与えてくれる妻と子供たち、家族・・・・・。
中途入社という屈辱に塗れた毎日は、結果的に私に、反省と謙虚さと感謝の気持ちを教えてくれた。
原因の種が外ではなく、自分にもあるのだと思うと、それを良くするための行動が実に明確に見える。なぜなら自分が、自分から変えればいいからだ。
他者を変えようとすることは実に困難なことだ。
しかし自分が変ると、あっという間にみんなが変ることもある。





大阪に来て3年かぁ。
あっという間だったなあ。
関西は私には似合わないと、結構多くの友が言ったが、しかし住んでみるといい所である。
しかしひとつ問題が・・・・・。

5人の子供たちのうち、下の2人が、ちょこちょこ関西弁になってきていること・・・・・。
『あかんで〜』
とか、
『せやで〜』
とか・・・・・。


おいおい勘弁してくれよ〜〜〜〜〜。