無力


先日、とても悲しく、辛い経験をした。


もう2週間前のことだ。


2週間前のことなのに、もっと早く書かなかったのは、この出来事について書くという状態に、私の心が整理できていなかったからだと思う。

私は今回、大変難しく、困難で、しかも貴重な勉強となる機会を経験した。




半月ほど前のことだった。

女性事務員の退職者が出た我が事業部で、やっと新しい人材の採用が決定した。

年齢は30歳くらい。

清楚な感じで清潔感のある、丁寧な言葉遣いとやさしそうな笑顔の女性である。
履歴書を読んでも我社の業務に近い仕事に就いた経験があり、頼りになりそうだ。
こんなにいい人が、我が事業部の欠員補充として入ってくれるなら、私もひとまず安心と、急いで入社の手続きを済ませ、早々に入社初日を向かえ、会社のガイダンスを行い、業務内容や社風、そして実務の説明を部下に指示し、これでインフラ側の業務滞留がなくなるなあと、喜んでいた。
ただ少し、転職が多いことが気になった。
それは人事部でも懸念する材料だったが、私は、とにかく早く人材を確保したかったので、その辺は目をつぶった。
それより何より、面接した段階で一発で、【この子は大丈夫!】と思えるほどのしっかりした女性だったのだ。




世の中には悲しい物語があるものだ。

彼女は【統合失調症】という病だった。

私は最初、そのことをまったく気づかなかった。
この病のことも、まったく知らなかった。
ただ以前、北海道にある【べてるの家】という施設に、統合失調症の病と闘う方々が、医師と共に暮らす施設コミュニティがあることを聞いたことがあっただけで、病の症状などにはまったく知識が無かった。
あまり知ろうとすべきではないことのように思えていたから。






私は何も気がつかないまま、彼女の言葉を信じ、彼女に向き合って対話し、助けようと試みていた。

彼女にはストーカーが居て、本当にそのストーカーに悩んでいるという。

ストーカーはいつも彼女を監視し、仕事中も、職場の他の社員にストーカーから連絡が入り、常に彼女を誹謗し、毎日毎晩、自宅も監視され、逃げ場が無いと、必死に彼女は訴える。

大変なお嬢さんを雇ってしまったという気持ちと、しかし縁があって入社した以上、助けてあげたい気持ちが交差し、よく判断できない。

そのうち、彼女と会って以来、ひとつだけ感じていた小さな違和感に、『はっ!』と気づかされたのだ。

彼女はいつも、私の質問に対して、ほんの少し微妙に、答えがズレている。
ほんの少し違う回答が返ってくることがあるのだ。

私の言葉を、私の言葉と明らかに違って聴こえているのではないかと、思えることに気がついた。

その答えに注目し、そこから質問を掘り下げていくと、完全につじつまが合わないことに気づいた。

(もしかしたら精紳の病かもしれない・・・・・)

私はそれまで、完全に彼女の言葉を信じきっていた。

いや、

彼女にとってはそれが真実だったのだ。



まだ入社して3日後なのに、あらゆる【幻聴】と【幻覚】が彼女を襲いだした。
私に助けを求めた直後、私を敵と思い、その直後にまた、違う敵が出来る。
次々に止まらない幻聴。
彼女に色んな声が話しかけるようだ。

涙を流し私に訴える。

その内容も二点三点する。

脅えた目をして震える。





症状を思い出しながらインターネットで徹底的に調べた。

完全に【統合失調症】の症状である。

すべての症状が、驚くまでに一致し、100人に一人程度の割合で、これらの症状に苦しみ、病と戦い続けている人がいることも。

(なんてことだ・・・・・・・・・)

頭のてっぺんから強い電気に貫かれたような気持ちだった。




99.999%正常なのに、たった0.001%が精紳に穴を開けている。

見えないほど細く、深い深い穴だ。

もう埋める事は出来ないほどの。

しかし普通には気づけない。

普段は見えない。

小さすぎて見えないほどなのに、取り返しがつかないほど深い穴。

たったその小さな穴のせいで、すべての水がそこから流れ出てしまう。

いくら水を流しても、決して溜まることの無い心。満たされることはないのだ。





それ以外は、ほんのその小さな穴以外は、すべてが完全に正常で、むしろ我々よりも素晴らしい人。
よく働き、よく動く。
よく声を出し、美しい所作である。


たったその小さな穴だけを除けば・・・・・。





彼女を守ることは出来ない。

私には不可能だ。

まして、仕事など・・・・・。

4日目、彼女が私のところに。

ストーカーの攻撃が収まらず、今後も改善される余地が無いので、これ以上会社に迷惑をかけられないと、辞めたいと言ってきた。

彼女が言ってこなければ私から辞めさせるつもりだった。

彼女がすべきことは仕事ではなく治療だ。


そのことを彼女には伝えたが、彼女には理解できない。


この病の厄介なところは、彼女自身がその病を、知ることが出来ないことなのである。
自分の病に自分では気づけない。


しかし私とて、それを彼女に気付かせるにも限界がある。


メンタルクリニックへ行ってくれと言ったが、彼女はすでに、幻覚と幻聴のなかで、医者への相談を済ませ、何事も無いとお墨付きをもらっている事になっていた。








彼女の前職に連絡し、彼女のことについて聞いた。

やはり同じプロエスを踏んでいた。

前職の社長は、統合失調症に気づき、医者にも連れて行ったが、薬を飲まなくなり、守ってやれなくなったと言っていた。









彼女は何も問題を起こさず、静かに退職していった。

それ以来なんの連絡も無い。

こんな世の中で、病を抱え、一人で暮らし、大丈夫だろうか。


身元保証人にサインをしてくれていた父親は、どうして彼女を連れ戻さないのか。


いや、戻せないのだろう。


彼女は病を認めず、理解していない。


まだ一人でやることがあるのだろう。





辛く悲しい物語だ。


私は無力であり、何ひとつとして、彼女を救う手立てを打てなかった。


そしてずるくも、だまって去っていくのを見ていた。



無力だ。

どうにもできない。




どうかどこかで幸せになれますように。

神よ、どうか彼女をお守り下さい。