言葉



日本の欧米化に危機感を感じている。
テレビのコメンテーターや、最近の政治家の話を聞いていると、日本人が日本人らしくなくなってきているような気がする。





日本人の歴史の中から生まれた言葉による文化。

先日ラジオである俳句を聞いた。



【松島や。ああ松島や、松島や】



これ何だぁ?



だた地名を3回言っただけの詩。
それなのにあの松島の景色、情景が目に浮かぶのはなぜだろう。
そしてきっと日本人なら、松島に行った事がなくても、
『ああ・・・きっと素敵なところなんだろうなあ・・・・』
と、過去に違うどこかで見たことのある景色を思い浮かべ、そんな連想をするに違いない。

これが日本人の心の中に潜む、長い歴史によって培われた文化なのだろうと思う。

欧米ではこのような心のあり方はない。

そもそも心なんて実態がないものだ。

心というのは、脳の伝達信号のよる記憶や記憶の引き出しを出し入れする仕組みを客観視した状況を表す比喩表現にすぎない。

しかし、地名を3度言っただけで、脳が様々な連想をし、それを心で最大化する。
だから日本人は、日本と言う国の実態が情緒的なものでしか量れない。
国を形成する理念がそもそもないのが日本と言う国である。
アメリカは、銃やライフルで国を形成した国である。
アメリカ大陸を次々と侵略し、インディアンを虐殺しながら土地を奪い、当のアメリカ人同士ですら殺しあって土地を獲得し、常に自分の身は自分で守らなければならない生活を強いられ、銃を携帯し、隣近所であっても時には平然と殺しあって、自分の家族や尊厳を守ってきた国民の国である。
その虐殺の歴史を【フロンティア精神】と言って美化し、現実と建前をはっきりと分け、そして国内の平和を実現する為に、次から次へと言葉の単語の止め処ない連続によって政治を成してきた。
言葉で通用しなくなれば、銃で思いどうりにする。
そうやって国を作ってきた。


あまりにも日本の国の成り立ちとは違いがありすぎる。


日本は天皇の神話によって国を形成してきた。

言葉は単語の連続でその意味を形成するのではなく、はっきりした単語の意味する状況を、そこから少し外れた単語を組み合わせることで、物事の本質を聞き手によって何通りにも解釈させ、答えをひとつにしない事で国民の文化を形成してきた民族なのだと思う。




【古池や、蛙飛び込む、水の音】




この詩を聞いて日本人が思い浮かべるものは、ただ蛙が池にポチャンと飛び込んだだけじゃねえか。というだけではない。

たとえば、静寂な夜の月あかりの下・・・・とか、一切言葉では触れていない景色まで連想する事を自然に行なっている。
これが日本人なのだ。



昨今の日本人で、特にテレビのコメンテーターなどに多いのは、とにかく精度の高い言葉を捜し、それらの言葉の果てしなき連続によって、徹底的に自己の正当性を突き並べ続けながら、
【私は正しい。あいつは間違い】
と、自己の立場の正当性のみを主張し続ける。

これは本来の日本の文化、日本人の人格の成長には合わない論理だと思う。

むしろ日本人の心をより美しく、そしてきっと正しいのだと思える選択へ導く手段は、そのことがらの意味するところを【詩】にして伝えることのほうが合っているのではないだろうか。



会社の上司にも色々いるが、会議でもとにかく自己の倫理の正当性を主張し続け、どこかで聞いた事のある事業組織であり溢れた言葉を連続して並べ続け、耳で理解させようとしている。
私はほぼ毎日、その典型のような言葉の連続にお付き合いし、失言だらけのその上司の言葉に嫌気がさしているところである。

失言は言葉であり、言葉は声であり、声は喉である。
失言を成す実態は実は、失言者の理念によるものというより、普段の行動や体の使い方によって起きるひとつの物理的ミスではないだろうか。

酒を飲んで話せばわかるということがあるが、要は、互いに体の使い方の癖を認識しあうことよって、互いの言葉の裏にある、本来の意味するところをイメージできるようになる事。
それが実は日本の俳句や和歌に潜んでいるのではないだろうか。



尊敬を集める上司には、決して多くない言葉の歪な並びから、様々な背景を聞き手に連想させることのできる人物に多い。



私の師は、私に色んな話を聴かせてくれた。

そしてその言葉から私に様々な人の情緒を連想させ、より正義に近い道を見つけるための、人間力を創造させてくれた。
そしてその【師】は、この世を去ってもまだ、この私にまるでそこに居るかのように、私に言葉を投げかけてくれる。
耳では聴こえないあの世に居る【師】の、心に響き染み渡る様々な言葉が、今日の私の様々な判断の礎となり、道を進む指針となっている。

私にとって【師】の言葉は詩であり、文化の伝承である。