恐怖






最近人が怖く思える事が増えた。

知らない存在なのに関わらざるを得なかった人。

怖いほどに言葉に無責任な会社の上司。

犯罪の身近な世間。

冷たく怖い妻。




妻はもうここ数年間、ほぼ毎日機嫌が悪く、少なくとも私の存在は限りなく疎ましいようだ。

話しかけると恐ろしい形相で軽蔑するような目で睨み、『はあっ?』と身を引いて答えるが、その表情と身を引く姿に私はもうそれ以上話せない。
大抵どんな返事やエネルギーが返ってくるか、すでに見えているから、気持ちがボコボコになることがわかるからだ。

何か動物の屍骸でも見るかのような眼で私を身を引きながら眺める。

それが凄く恐怖。


居間で私が歩いて部屋を移動すると、私の胴体を睨みつけながら、(てめえ歩くんじゃねえよ!)とばかり、眉間に縦ジワを寄せて睨んでいる。

家で焼酎を飲もうと支度を始めると、迷惑そうに大きな溜息を連発し、(呑むなら早く言えよ、このやろう)といわんばかりの所作となる。

最近本気で人が怖い。

恐ろしいほどの変貌を遂げる人が理解できない。







最近では、妻との対話はほとんどない。

子供の学校のことや習い事の事、自分では言う事を聞かない長男長女を何とかしろとか、その程度の会話だけだ。
いわば、私への興味は存在せず、自分への関心は迷惑にしか思っていないのだろう。




私たち夫婦を仲が良いと言ってくれる人も多いが、実態はただの私の片思いでしかない。

出会った頃はきっと互いを思い合っていたと思う。

双方片思いではなかったとおもう。




女性は今を生き、自身の未来を変化させ、初心を風化させる。そしてしかし、周囲の変化を好まない。

男性は初心に生き、いつまでもそれを忘れない。未来を変えないことで初心を守ろうとする。自身の未来は仕事で創造し、周囲にも変化と成長を好む。






私は妻が好き。

言っておくが【M】ではないから。

どちらかと言えば【S】の私だが、私の妻への愛は年々日々、どんどん深く厚く熱くなっている。
なんせ綺麗だから。





しかし妻は多分私を好きではなくなっている。

たまたま後戻りができない状況なだけで、子供がいなかったら当の昔に妻は出て行ったと思う。





しかしなぜだろう。
私は妻がまったく嫌いになれない。

いやむしろ、年々年を重ねるごとに、熟年の色気を重ねる妻の姿に心を奪われる。
ただひとつ、彼女が怖い事だけを除けば。




ブルースリー【怒りの鉄拳】のシーンのような表情で、私をキッと睨み、(なに話しかけてんだよてめえ!)という顔をする妻。

その怖さだけを除けば、こんなに綺麗な女性はそうそう居ない。




妻は私には関心がない。

私がどんな仕事をしているか、仕事でどんな苦労があるか、一切聞かないし、むしろ聞きたがらない。
私が私の話をしようとすると、妻は迷惑そうに携帯を弄りだす。


だから彼女は私のこの日記も読んでいない。

私が何を思い、どんなことを書いているか、興味がない。

一度たりともこの日記の話を二人でしたことがない。

この日記の存在は最初に説明したが。。。。。

きっとだから、この内容も妻は気づかない。

いや、読まれて困るような事は書いていないし、今の私に隠し事などはない。

むしろ、過去の内容は是非読んで欲しいと思う。



世の男性が皆、晩年になると妻を怖がり、ビクビクして暮らすようになることをよく聞く。

いよいよ私もそういう男達と同じ男になったと言うことだ。

そういう風にどんどん自信を無くし、子供が巣立って最後になって、捨てられる事になるのだろう。
家庭における私の生産力は、ただただ給料なのだ。
その給料の生産がおぼつかなくなり、年金暮らしになったりした瞬間、もう用無しでしかなくなる。

晩年離婚は増加し続け、今後もさらに増えるだろう。

日本の実社会で、特にサラリーマン家庭に良くある話だ。

そして私も安定して一定したサラリーマン生活を要求され、それに応えて15年経過。

家族も成長してきて全員がいよいよ本物の姿を出し始めた。

現在の家族のそれぞれの関係と距離感が実は本当の姿なのだ。



今の私は仕事も苦しい。

子供たちも思春期真っ只中と、大学、高校進学で金のかかる時期だったり、まだまだ一年生で毎日手のかかる子供がいたり、宿題の遅い子供がいたり、イライラ極地の妻がいたり、家に帰ればゴロゴロ捨ている亭主がいる。
周りの全てが地獄のように思える生き方をすれば、そういう人生の【表情】が顔に出て、そういう人相の人間になる。
困難でもそれこそが人生と考え、楽しむ生き方を探すことは、問題の原因や本質が【他人ではなく自分になる】ことに気づくことができれば、人生は楽しいものになるだろう。




多分私は一生妻が大好きなままだと思う。

そして多分もう、私は昔のように妻には愛されないのだろうと思うが、それでもいい。
私は帰ってくることを前提に人を愛したのではないから。
愛しているからただただ与えたかっただけなのだ。
時にそれが自己犠牲の上に成り立っていても、それは自分が選んだ道である。
人に矢印を向けているだけでは、何をしても何をされても、その全てが憎しみにしか写らない。
ひとたび自分に矢印を向ける勇気を持てれば、原因が実は他人ではなく、自分にあったのだと気づくことができる。
気づくと人が憎くないことにも気づけるのだ。



男と女の違いやら、人生観の違いやら、なにやらかにやら言ってみても、人はまさにお天道様の下に平等なはず。
だから【人は鑑】なのだ。

妻がもう私を愛さないのは、お天道様の元に決められていた結論であり、私がそれでもただ妻を愛しているのは、私の生きる使命なのだ。




人の尊厳や生きる上での原理原則のようなもの、道徳と言おうか、倫理と言おうか、もうこういうことが世にあまり存在していなくなった気がする。



人って怖い。


ひとりで生きることを怖がらないような、強い自分を取り戻そう。

ひとりでいてさびしくない人間を取り戻さなくてはならん。

いつか来るであろうひとりぼっちの為に、強くなろう。

多分俺はそのうち捨てられるからなあ。

心の準備だけはしておかねばならん。

オタオタ未練がましくならないように。