無口



昔よく親に言われた言葉に【無言実行】という言葉があった。

また、【口は災いの元】という事も言われた。

私は決して昔から無口ではない。
どちらかと言うと、このような記事を書くような性格だから、自分の言葉で色んなトラブルを起こした事もある。
その度に世間では、決して正しい事を言うことが、正しい結果を生むとは限らないと言うことも学んできた。

昔はベラベラしゃべらないで結果を出すことが美徳とされた。
しかし現代は、話ができない人は成果が出せないことが人間の経験でわかってきて、むしろ話して宣言して結果を出すことの方が、当然の美徳であることに気づき、常識感は変ってきた。




無口な人がいる。

私も身近にも。

無口な人は言うが如く、あまり口を利かない。

だから、何を考えているかまったくわからない。

いや、こちらも色んな想像はする。

こんなことがあったからきっとこんな風に思っているだろうとか、きっと少しは考えるところがあるだろうとか。。。。。

しかし私は過去の多くの無口な人とのかかわりの中で経験してきたことから言うと、無口な人は、あまり物事を突き詰めて考えていないのが現実だった。

何かを考えているからこそ言葉が出なくなり、無口になるという事とは違い、何も考えていないから意見がない。

また、何かを考えていても、突き詰めていないから、発言に自信がなく言語にまで到達していない。

私の過去のかかわりの中では、俗に言う無口な人は、物事について真摯に考え抜くことをしていない人だった。





しかし無口な人は、たとえば議論の最中に突然、何かに反応し、ボソッと言葉を発することがある。
そうすると突然議論の中心が、それまで話の中心にいて、議論を引っ張ってきた人から反れて、無口な人のたった一言の新鮮さに心を奪われてしまう。
そしてそれまで多弁だった人は、話の隅に追いやられてしまう。
しかしその珍しい新鮮な一言を活かしながら継続して議論すると、【無口な一言】が実は、ほとんど議論の進化に役立っていないことに気づく。
新鮮だったのは議論の方向性を無視して、自身の正当性の主張をベースに、むしろヘタクソな言葉の選定をしたにしか過ぎなかったからだ。無口な発言者は、実はあまり考えて発言していない。


私はこのような現象をとにかく嫌う。

議論と言うのはそれぞれの考えを交し合い、みんなで次の閃きを探る為のものでもあり、その場の議論のベクトルをむしりとることではない。

人と話し合うということは、それぞれの正当性の主張を聴き取りながら、正義が何か、みんなで探しあい、そこへ目指して誘導することでもある。

無口でもいい。

しかし無口な人の一言を異様に大切にする集団心理は危険である。
これまで発言してこなかったのは、語るよりもまずじっくり考え、誰よりも思慮深くいたからであろうという集団心理は実は落とし穴であり、そもそも議論は言葉によってよりコミュニケーションを図る場であって、思慮する場ではない。
考えるならば、議論の場に来る前に考えて来いって事である。
またあるいは、議論しながら考え、主義主張と自己研鑽とを繰り返しながら、自身の中にある論理を少しづつ進化させていくことが大切だ。





人は話さなければ何もわからないことが前提にある。

一を聞いて十を知る。。。ということもわかる。
また、みなまで言わずとも理解する必要性もあるだろう。

しかし話をしなければ何も伝わらないと、自身がそれを前提にしなければ、相手に対し、【何もわかってくれない】と勝手な妄想をすることになる。

本来、対話を避け、言葉にする勇気を持てず、何も伝えてこなかった人が勝手に、相手に対してテレパシーを求めるのは筋違いだ。

【言わなくても解ってよ。】
【言わなくてもわかるだろ?】

とよく言う人がいる。

これは、自分が自分以外の人とのかかわりの中でするべき当然の努力を怠っていることが前提にある。
言葉にする勇気と思慮する努力と、伝えることへの難しさを放棄しておきながら、人にだけ超能力を要求することは、人としての基本的倫理に欠け、求めることで自身を正当化していることにすぎない。




企業組織で言うと良くわかる。

仕事の戦略会議や、問題解決への議論において、会議の参加者のなかには必ず、ほとんど話さない人がいる。

話ができないのには理由がある。

他の発言者の考えを言葉で聞いて、それに対して影響的な言葉を発するまでの考えに至っていないとか、自信がなくて発言する勇気が出ないとか、言いたい事はあるけど言い返されたときに対抗できるまでの思慮をしていないとか。

そういう人に限って、会議の終了後に身近な人に、会議を引っ張ってきた発言者のことを、影でブツブツと不満を言う。

あんなこと言ってたけどそれは違う。。。とか、俺はこう思うとか。

昨今の企業では、このように議論すべき会議が終わってから、影でブツブツいう族は出世できない。
まして、リーダーへの成長は程遠い。



企業活動に限ったことではない。

夫婦関係、家族関係、友人関係。。。。。

いつも言うことだが、原因の矢印を人に向けることほど簡単な事はない。
たとえ原因が相手にあったとしても、人を変える事に、人は無力なのだ。

受け入れられないのは、自分に思慮と、心の成長が追いつかないからであり、自分の変化や成長によって、受け入れ幅を広げようとしていないからなのだ。




しかし人間は超能力を使って生きてはいない。

言葉による相互理解によって、人とかかわり生きている。

無口になる。。。のと、無口な人。。。とは決定的に違う。

無口な人間が無口なのは理由がある。

あまり物事を考えていないだけである。

だから言葉が出てこないのだ。


無口な人を多弁に変えるのは不可能と言っていい。

性格なのだ。

あまり考えない性格。

いいことだ。

考えることは疲れることだ。

脳が疲れるのではなく、考えば考えるほど、心がヘトヘトになる。
自分が考えた末に発言する言葉によって、時には人を傷つけるなどして、後悔したり反省したりするから、それらの経験によって人の気持ちが理解できるようになる。
また一方で、人を言葉で救ったり、慰めたり、勇気付けたり教えたり、成長させたりもできる。
話がうまい人は教えるのが上手い。
教師やコーチであれば、生徒が大きく成長する。
授業もより生徒が理解を深め、成績も上がる。
私の【師】は、とても話が上手だった。

話の上手い人は、普段から身の回りに起きる事や、周りの人とのかかわりの中で起きる事を、深く考えている。
そしてそれらの経験を踏まえ、何通りかの【物語】を作る。
その物語を増やし、事例ごとに置き換えて議論を展開する。
だから経験と知力によって、多くの人を導くことができる。

よく言えば、良く考える人は、人の気持ちを自分に置き換えることができる。

悪く言えば考えすぎて神経がまいってしまう。



考えない無口な人は、人の気持ちを知らないままだから神経が楽。
言葉にも出さないから災いも起きない。
人を言葉で傷つける機会も圧倒的に少ない。
言葉によって誰かを救ったり慰めたりもする機会がないから目立たない。
人との関わりが深くなる事が少なく、害がない。
その代わり、コミュニケーションによる何かの成果がない。
自身の物事の記憶が【点】であり、ベクトルではない。
ベクトルでないから物語にならない。
だから語れない。
語れないから、語ることによる人への慰めもなく、吸引力もなく、影響力もない。
物語としての理念がないから人の気持ちが見えない。



何度も言うが、【無口になる】と言うことと、【無口な人】とはまったく意味が違う。




人は何をしたかより、どう生きるかの方が大切だ。
だから確かに言葉による成果など、どうでもいいのかもしれない。

だが、それでも確実に言えることは、その言葉による影響が確かにそこにあり、そして何かの成果があり、時に人が救われ、人が活き、仲間への影響があり、時にリーダーとなることにも結びつく。
リーダーであれば、同じ目標に向かって突き進むべき道を示すことで人に幸せのページを残せる。




話ができない人は、そのいずれかも圧倒的に機会が少ない。

人を救う機会も少ない。

人の気持ちを理解しにくい。

そのすべての経験が圧倒的に少ないからである。







しかし一番怖いのは、何も考えないのに言いたいことだけだらしなく口から吐き出す人である。