コロナセリカセドリック

コロナ恐れてマスクというより、花粉恐れてマスクなんだけど、

花粉症じゃなかったみたい。

 

で、通勤満員電車乗って、マスク忘れて「やばっ!」と思ってあたりを見回したら、

満員電車全員マスクしてるではないか。

で俺、(逆に俺安全やなあ)

と思う。

 

学校も全部休校もいいけど、子供たちは学校休んで、あちこち遊びに行っちゃうやんか。

そこでバリバリ感染してまうで。

ディズニーランドとか映画館とかイオンとか子供大好きやもんねえ。

こういう施設全部休園、休店したらそりゃそれで経済的に大打撃。

 

しかし一番危険なのは毎朝、ものすごい数の人が、満員電車でギチギチに濃厚接触してることやないですか?

 

コンコン咳してますよ結構たくさんの人が。

 

いや絶対満員電車一番危険やって。

 

会社も危険やって。

 

もう言い出したらキリないで。

冷める

もともと我が家はテレビも見ないし、芸能界には興味もないが、

もとSMAPの中居さんの独立記者会見が絶賛されているのをネットニュースなどでしる。

それがものすごく気持ちが悪いと思ってしまう私は変なのか。

 

何度かテレビで中居さんを見るが、人に阿ることを、そう見えないようにするテクニックに長けた人だなあと、

そんな風に思って見ていた。

 

仕事には色々あるさ、芸能もそのうちだよね。

プロレスが芸だと分かった時、沢田研二のコンサートに行けなかった時以来、

芸能人とプロレスラーに冷めてしまった私です。

 

なんてことを考えながら、ネットニュースを見る。

コロナウイルスマスゴミが大喜びしている。

 

習慣でしょっちゅうマスクをしている妻。

花粉症でマスクが必須の子供たち。

ドラッグストアにマスクが無いと困っている。

手洗いのアルコールも売り切れだと。

 

なぜだと聞くと、一般人が買い占めてネットで高く売っていると。

 

3000円くらいで買って、15000円くらいで売ると。

ひと箱で12000円の粗利益だと。

 

確かにいい商売だけどね。もうガッカリだよね。

そんなことしてまで小金が欲しいか。

シナ人がこぞって買い占めているとも聞く。

 

無い無い聞くからあきらめ気味。そんで会社近くのコンビニに朝は入る。

ん?数枚入りのマスクが売ってるじゃないか。しかも普通の値段!

偉いなあコンビニ。こんな時でも足元見たりしないで。

 

こんな時期に花粉症、生まれて初めて発症しまして、マスク5枚入り購入。

 

花粉対策、少しでもと思う中、ふと街を見ると、そして電車内を見ると、

ほぼ全員マスクしてる。

 

(なんだ。買えてるんじゃないか)

(え、花粉?)

(あ、コロナ対策か?)

 

花粉は大粒だから、マスクは効果大だろ。

が、ウイルスはマスクの目の隙間や脇からバンバン入って来るやろ。

 

風邪、インフル対策で、マスクも手洗いもしたことない私。

 

手洗ったって、次の瞬間 なにか触ればアウトやし。

マスクしたまま飯食えねえし。

一緒やん。

 

冷めるなあ。

歳をとること

好きな人に期待してしまった。

それを愛情と思いこんでいたのかもしれない。

あたかも期待することが正しいと思い込み、それを導く権利があるように思っていた。

君がこうなってくれたら、僕たちはもっと幸せになれると思うんだ。

そう言って相手を追い込んでいた。

それから何年か経って、傷をつけてみて初めてそれが間違っていたと知る。

人を変えることに対してそもそも人は無力であって、人は簡単にそう変わらないし、変わること自体が何ひとつ正しい事ではなかったことに気づくのだ。

過去は取り戻せない。

今気づいてももう取り返しがつかないこと。

戻ってやり直すことはできない。

 

人に対して【こうあるべきだ】と意見し、押し付けることの暴力性に、

私はこの歳になるまで気づかない。

自分が正義と信じていた自分の中の正当性を、相手と相対して気づくまでに感じる後悔や痛み、そして無意味さ、その領域は若いうちにはたどり着けない世界なのかもしれない。

社会正義だとか、社会倫理だとか、社会道徳だとか、そう思っているものは、

なかなかそれがしょせんは暴力なのだと批判的に見るのが難しいと思う。

愛とか、正義とか、聞こえのいい気持ちいい麻薬のようなことばの海に、いつの間にかおぼれていることに気づかない。

溺れ、息すらできなくなり、死んでいるに等しくなっていく。

溺れている自分を、自分で批判するなど、そんな勇気も根性も持つことはできない。

自分が誰かを傷つけて、相手にも自分が傷つけられて、苦しんで絶望して、自己嫌悪と後悔の大津波にさらに溺れてからじゃないと、

気づくことができなかった。

 

人との距離を大切に思うこと、それこそが愛情なんじゃないかなんてそう思うまでに、取り返しがつかない時間をかけた。

人を変えられないこと、それが無意味なこと。

その理解で人と接すること。

悪い事ばかりじゃないと、変わることを期待しても悪くない。

 

正しいことを、正しい!正しい!と、強く強く語ると、もうそれは間違いになるものだ。と言ったのは、大学時代に演説をぶった私に言った、父の言葉だ。

小心者

まさかそんな。

まさかあの人が!

 

そんなことが昨今増え、美しいと思っていた【こと】や【人】も、

実はそう簡単にそう思い込んではいけないものなんだなあと、

とても気持ちが暗くなる最近です。

 

例えば、障がい者の方と何十年も一緒に色んな活動を共にしているというだけで、

私なんか、それだけでただ尊敬してしまうじゃないですか。

いやみんなもきっとそうじゃないかと思うんです。

 

ところが、見方の違う人から聞かされた話を聞くと、

金のためでしかないんだとか、

陰でパワハラやってて障がい者苦しめて、うつ状態に追い込んでるとか。

 

どうしてこうも人間とは。。。。そんな風に思い、気持ちが落ち込みます。

 

過去、人を傷つけた思い出や、妻に吐いた暴言への後悔など、

反省しても取り返しのつかない思い出が、再度あまたに浮かんできます。

 

自分もそうだけど、自分がそんなんだからこそ、ついあこがれちゃった素敵な人が、実は全然悪魔だった。

なんて、聞くと立ち直れないくらいショックでもう数か月前に聞いた話なのに今でも忘れられません。

 

僕は小心者なんだなあと、つくづく思います。

 

 

他責と自責

人はおおむね自分の過去に、誰かから刷り込みを受けた、何らかの習慣や習わしなど特定の癖や価値観に洗脳されたまま生きている。

そしてその絶対者から受けた洗脳を、絶対に正しいとしか考えない。

 

昨今は時代がものすごいスピードで変化しているので、その価値観も癖も刷り込みも、時には一瞬にして常識が変化して、古い考え、古い人という扱いを受けることも増えたと思う。

 

表に観念の強さがもろに見えるタイプでも、実は時代の変化に敏感で、自分の観念を変化させることができる人もいる。

逆に、表向きには物静かで人に観念を押し付けなさそうな人でも、実はそういうタイプのほうが物凄く自分を曲げない強烈な癖があったりする。

 

だんだん歳をとるとわかってくることがある。

昔のイメージでいい人…というタイプが実はものすごくややこしくて、自分絶対!のタイプが多くて、逆に昔のイメージでクセのある人と思っていた人のほうが、実は倫理と道徳があって、他責ではなく、常に自責のスタンスで対人を捉えている人だったりするという。。。。。。

 

私は若いころ、何も人のことを視れていなかったのだろうなと、昨今そう思うのです。

 

それでも私の人生は確かに感動の毎日でした。

でもそれは同時に、後悔と反省の日々でもあります。

 

 

 

 

 

人間中心

もっと人間を中心に考えましょうと、

そんな風に言う人は確かに増えた気がしますが、

皆そう言うだけで、実現などしません。

なぜなら、そもそもそれを実現できる人は普通の人では不可能だからです。

 

それが実現できるのは【権力者】だけです。

 

つまり、だから決して実現することはないのです。

51歳

しばらく日記を書いていなかった。

 

いつのまにか51歳になっている。

 

師が亡くなった年齢だ。

 

師は51歳の年の、6月16日に亡くなった。

 

私はその師の死に間に合わなかった。

 

仕事で席を離れられなかった。いや、離してもらえなかった。

 

師が51歳で逝ったのなら、私ももしかしたら逝くかもなあ。

 

最近全然眠れないし、生きる意欲も減退している気がするし、そろそろだろうか。

 

師の米さんだったら怒るだろうなあ。