歳をとること

好きな人に期待してしまった。

それを愛情と思いこんでいたのかもしれない。

あたかも期待することが正しいと思い込み、それを導く権利があるように思っていた。

君がこうなってくれたら、僕たちはもっと幸せになれると思うんだ。

そう言って相手を追い込んでいた。

それから何年か経って、傷をつけてみて初めてそれが間違っていたと知る。

人を変えることに対してそもそも人は無力であって、人は簡単にそう変わらないし、変わること自体が何ひとつ正しい事ではなかったことに気づくのだ。

過去は取り戻せない。

今気づいてももう取り返しがつかないこと。

戻ってやり直すことはできない。

 

人に対して【こうあるべきだ】と意見し、押し付けることの暴力性に、

私はこの歳になるまで気づかない。

自分が正義と信じていた自分の中の正当性を、相手と相対して気づくまでに感じる後悔や痛み、そして無意味さ、その領域は若いうちにはたどり着けない世界なのかもしれない。

社会正義だとか、社会倫理だとか、社会道徳だとか、そう思っているものは、

なかなかそれがしょせんは暴力なのだと批判的に見るのが難しいと思う。

愛とか、正義とか、聞こえのいい気持ちいい麻薬のようなことばの海に、いつの間にかおぼれていることに気づかない。

溺れ、息すらできなくなり、死んでいるに等しくなっていく。

溺れている自分を、自分で批判するなど、そんな勇気も根性も持つことはできない。

自分が誰かを傷つけて、相手にも自分が傷つけられて、苦しんで絶望して、自己嫌悪と後悔の大津波にさらに溺れてからじゃないと、

気づくことができなかった。

 

人との距離を大切に思うこと、それこそが愛情なんじゃないかなんてそう思うまでに、取り返しがつかない時間をかけた。

人を変えられないこと、それが無意味なこと。

その理解で人と接すること。

悪い事ばかりじゃないと、変わることを期待しても悪くない。

 

正しいことを、正しい!正しい!と、強く強く語ると、もうそれは間違いになるものだ。と言ったのは、大学時代に演説をぶった私に言った、父の言葉だ。