指導者の暴力





高校の教師による生徒への体罰で、毎日続くそれに耐えられなくなり、なんと、生徒が自殺するという悲惨な事件が発生した。

これはもう体罰ではなく、まるで形を変えた殺人である。

運動部の主将を務めていたとはいえ、自殺の前日、合計40発にも及ぶ体罰を受け、口の中を切って血を流していたほどであったと言う。

母親もこの顧問教師の体罰を知ってはいたが、運動部であり、チーム競技の主将であった事もあり、親の立場でどこまで首を突っ込むべきか、苦慮していたのかもしれない。

周りの証言では、この教師の体罰は日常茶飯事で、いわば毎日毎日、自殺した生徒をはじめ、部員たちが殴られていたということだ。



平気で体罰をポンポン使う教師がいる。
私の高校時代にもそういう族教師がいた。
私立高校であり、生徒の家庭がお金を出していて、生徒が学校を辞められないし、反抗もできないという事をいいことに、生徒を平気で物凄く殴っていた教師が何人もいた。
鼻血を出したり、顔を腫らしていても、周りの教師も何も言わなかった。
主に体育教師である。
私立高校の体育教師は、実に頭の悪い族が多い。
なんの理念もなく、本能で生徒を殴る。
なんらかの理念で、体罰に意味があって使うなどという教師ではない。
そもそも、体罰を平気で使う指導者に、体罰を使う理由をしっかりと述べられる指導者はいない。
理由を述べられないのは、理由自体が存在しないからだ。
感情で生徒を殴っている。
自分が言葉や理念で子供を導けない苛立ちと、自身の程度の低い頭脳に腹が立ち、その八つ当たりを生徒に向ける。


むかし日大系のある高校のコーチは、練習で選手が思うようにいかないと、選手をプールサイドで、しこたま殴った。ちなみに当時は、コーチであって、資格のある教師ではなかった。
しかも、殴ると言うより、殴るわ、蹴るわのオンパレードで、周りで見ている生徒たちは、震え上がるというよりかは、そのひどい暴力性に呆れ、軽蔑したものだった。
同じ高校の監督だった先生は、このコーチとは違い、今でも卒業生に慕われ尊敬されている一方で、今ではこの監督よりも地位と名誉を得たそのコーチは、実はただの暴力装置であった。
だから選手も育たなかった。
中学までは本当に素質のある、期待もされた子供がいたが、ほとんどが成長が止まった。
このコーチのせいであろう。
名前は出せないが、知っている人はすぐわかる。








しかしあえて言えば、生徒の中にも、口で何度言っても言う事を聞かず、まったく反省の色もなく、この際はなんらかのきっかけが必要と判断し、その生徒や教え子の将来を思えば、今ここで、指導者としての怒りをしっかりと人間らしく伝えなければと、そんな風に思って教え子を殴るのならば、せいぜい【一発平手打ち】で十分だろう。
教えるプロセスには怒りも存在する。
それでも暴力、体罰が正しいことか、間違いか、その議論は答えが簡単には出せないはずだ。





『お前の為を思って殴っている』

そんな言葉をよく聞くが、為を思ってのことならば、それはそもそも相手に伝わっているのか?
伝わってはいないはずだ。
指導とは伝える事である。ほとんどの場合、体罰が最大の伝わらない方法である。
むしろ、殴られたほうは、その絶望感と悲しさに、押しつぶされそうになりながら、生き抜くために、殴る教師に潰されないように、心の中で必死に自分を奮い立たせているはずである。


私も子供を殴ったことがある。

母親の言う事を聞かない時によくやる。

一度や二度程度ではない。

必要と思って長女を平手打ちした事もある。

必要じゃないのに腹が立ってひっぱたいた事もある。

そんな時、うちの子は私に脅え、必死に堪える顔をする。

暴力に、恐怖に脅える。

たった一発でも、子供にとってはこれほど怖いのだ。

子供が大きくなって、そのことを覚えていれば、私は愚痴を言われ、恨まれるかもしれない。

【愛の鞭】と言う言葉もあるが、子育てにおける子供への暴力とて、決して常に愛があるとは思えない。
親とて一時の感情で、子供の後ろ頭をひっぱたく事もあるからだ。



私の父親は、物凄く私を殴った。
なぜ殴られたのか、それほどその理由を思い出せないのは、その理由がその程度の、たいしたことのない理由だったからだろう。
私は小学生の頃、3日に一度程度は必ず父の前に正座をさせられ、頭はゲンコツで、頬は平手で、何度も何度も殴られた。
自分の手で殴るのが痛くなり、今度は剣道で使う竹刀で殴った。
竹刀は何本も何本も割れ、割れた竹の間に肉が挟まり、打撲の痛みと、つねられたような痛みが同時に襲い掛かった。
泣こうが叫ぼうが、父は決して暴力を辞めなかった。
母は、
『あんた、頭はやめな、馬鹿がよけい馬鹿になるから』
といって、助けてはくれなかった。
それどころか、殴っている父に、よけいに怒らせるようなことを言って、暴力をはやし立てていた。
一緒になって私を怒った。

私も何か悪かったのだろう。

しかし、たとえば盗みとか、人を怪我させたりとか、そういうことは一度もない。
きっと学校のガラスを割ったとか、勉強をしないからとか、母親に生意気な口を利いたとか、そんなことしかしていないだろう。
こんな理由でも、親でも、圧倒的に力の差がある大人でも、小学生の小さな子供を、数時間かけて殴り続ける事ができるのだ。
親でもできるのだ。
そしてその理由は、
【お前の為を思ってのことだ】
と言う。
【愛の鞭】
と言う。
上に書いたような体罰が、本当に愛の鞭であろうか。
いや、ただの親の怒りの矛先だっただけである。
仕事で苛立ち、金で苛立ち、自分に苛立ち、私に暴力でウサ晴らししたのだろう。
あの頃の私は、まだ小学生だったが、それでも毎日【死にたい】【死にたい】と、そんなことばかり考えていた。
両親は、きっと私の本当の親ではないと思っていた。
私は貰われてきた子供なのだろうと。
さんざん殴られた後泣きながら二階へ行き、ベッドに座って考えた。
【どうやったら痛くなく死ねるかなあ】
親に殴られるのが嫌で、親の殴り方が嫌で、あれで私はかなりの自信を失った。
もうそのことを恨んではいないが、昔はよく親に問いただしたものだ。
『なぜあんなに俺を叩いたの?』
納得する答えを聞いたことは、一度たりとも、聞いたことがない。
つまり、実は暴力をふるう理由なんかないからだ。
後になって振り返れば見える。
そこまでする理由なんかなかったわけだ。



こうやって文字にすれば、どんな暴力であっても、その理由がいかに正当化できないか、わかるだろう。
つまり、スポーツであっても、チームを強くすると言う理由であっても、暴力が必要だとか、ある程度は仕方がないとか、そんな理屈は、教師や指導者の無能さを晒しだしているにしか過ぎないと言う事なのである。

北島康介選手の平井先生は、北島選手を一度でも殴って育てているだろうか。
友人で先輩の鈴木大地さんのコーチであった鈴木陽二先生は、一度でも大地さんを殴って育てただろうか。

そんなわけない。

指導で一定の暴力を使うなら、1000歩譲って、その指導者がその暴力以上に信頼を得ている指導者かどうか、そこに尽きるのだろう。
私の恩師は、私たち選手のお尻を良く叩いた。
竹刀やプラスチックバットを使って、練習中のタイムが遅いと『あがれ〜!!』と言ってプールから上げ、1秒切れなければ一発、2秒切れなければ2発、といったように、お尻を叩いた。
決して軽く叩くわけではない。
物凄く痛かった。
次の日は学校で、椅子に座れないくらいに腫れあがったこともある。

しかし私の恩師は、すべての選手、子供たちに、本当に好かれた。
そしてその信頼は、選手が師のもとを去り、大人になってからも、いつまでも続いた。
師がこの世を去ってしまった今でも、育て上げた教え子達は、その師の名前を使って、【会】を作り、私たちのお尻を、紫色になるまで叩いた師匠を慕っている。


必要な体罰と、不必要な体罰

虐待か愛の鞭か。

どこにその境界線があるのだろう。

しかしもしあるとしたら、拳を上げる人物の、【人格】なのかもしれない。




私は結局、暴力のすべてに、言い訳できる理由なぞ存在しないと思う。

そう思ってはいるが、しかし、私の師である、米川先生のお尻叩きは、何度も叩かれて痛くても、さらに感じる師の愛に、自分が守られていた事だけはわかる。

それだけの人間力に優れた、それだけの包容力に優れた、それだけの愛に優れた【先生】になら、もしかしたら許されるのかもしれない。

親に何時間も殴られ続けた過去は、思い出したくもない地獄絵図だが、
師に叩かれた【ケツバット】は、いつも思い出し涙が溢れる、懐かしい思い出だ。
親に殴られ失った自信を、師匠はケツバットという方法で取り戻させてくれた。

私にとって、亡くなった師匠のケツバットは、正しい暴力に思える。