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ある方のブログを読んで、ブログコメントについて改めて考えた。

そもそも私のこのブログは実名をオープンにして始めた。
特に意味はなかったが、誰が書いているか分からないようなブログで、はたして読んでくれる方がいるのか??と純粋に不思議だった事もあるし、私のブログを読んで下さる方々がある程度わかっていたので、見つけられないのは申し訳ないという気持ちもあったからだった。

しかしある出来事で、実名を出すのは止めた。

しかししかし、止めたものの、yahooの検索では、全然ヒットしちゃうって事も、この前ある方からお聞きして分かった。
だから実質誰かって事も全然分かっちゃってる。
まあ隠す気もないしバレバレだから。

ブログに掲載している写真も、私以外の方々も、そのまま掲載させていただいている。
誰にも許可もらってないけど。(スンマセン笑)



数ヶ月前、ある外国人が殺害された事件で、自治体の会長が募金を集めて遺族に渡したという話と、そのニュースを聞いた大阪や神戸の主婦が、
「お願い!日本を嫌いにならないで下さい」
とか、
「日本人として恥ずかしいです。犯人に代わってお詫びしたい!」
とかって言ってる記事読んで、


う〜〜ん。どおなの〜〜〜〜????


という批判を書いた。
犯人が純粋な日本人かどうかすら、実はまだはっきりしていない時であった。
メディアでも、朝の日の系統は、犯罪者報道の際は、完全日本名で報道し、良いニュースの際には、本国名で報道する。正確な報道がいつも行われているとは限らないのが現在の日本。


その事件に関する自分の考えをブログに書いた時、数分後、コメントに喧嘩上等!とばかりに批判の記事が書かれた。

募金した当人らしかった。いくらかわからないけど。


もし根に持っていたら、いまだに私のブログに来て読んでいるかも知れない。


私は、外国人の方であっても、わが日本人の方であっても、事件に巻き込まれ、辛く悲しい思いをされ、多大な精神的、肉体的被害をあうこと、その辛さには、違いはないと思う。当たり前だ。
しかしこの時のその地域の人は、この外国人の時だけ町内会で団結して募金を集めるという行動を起こした。
もちろん、この行動自体を批判するという訳じゃない。少なくとも『批判』という気持ちはない。

しかし、同じ日本人の悲惨な事件も、地域には頻繁に起きている。
でも被害者が日本人の場合なら、頻繁に、半ばそのようなニュースは日常的であることも手伝ってか、募金を積もってくれるような、そんな事はしてはくれない。
実質、見て見ぬ振りする事がほとんどなのだ。つもりはなくても、それが現実の姿。

そりゃあ、外国人の方は、慣れない環境、言葉の壁、不利な条件が一杯なのはよく分かる。
しかし、それは本人が百も承知でおいでなすったわけだ。
私たち日本人も、外国へ行けば同じ、いや場合によってはそれ以上に過酷な生活環境に負われる。


その中傷コメントに書かれていたのは、何もしないでいるより行動する事にはエネルギーが要る、募金もしないで勝手なこと言うな!と言うような事が書かれていたが、そもそも募金とか、お見舞い金とか、そういう類には、もうやばいくらい普段からお金を使っている私には、全然響かず・・・。
この人はきっと、自分が募金をしたということで、自分自身をこのケースにおける絶対的善意の象徴のように思い込んでいたのだ。

震災の時も、無被害の関西だからこそ、昼間確りと仕事して、日本の経済の末端の小さな経済活動をしっかりと支えながら、私の出来る最大の支援活動を行なったつもりだ。
経費かかる我が家の家計を無視して、カードで金下ろして募金した。
だから、ひとつの事件の為に、それがたまたま外国人だったという理由で、町内で大騒ぎして募金する集団が、どうしてもしっくり来ないのだ。集団がある特定の個人に金銭保障している。

何か方法が間違えていないかと。

それに、
「日本人を嫌いにならないで〜〜!」
と過敏に泣き叫ぶ、まったく関係ない主婦。物凄い違和感を感じるのは私だけだろうか。
「犯人に代わって謝りたい!」
という手紙を被害者に送る主婦。お前が謝ってどうないすんねん!と突っ込みたくなるのは私だけだろうか。

このような人達はたぶん暇なんだろうと思ってしまう。

ワイドショー見て、コタツでせんべいボリボリかじりながら、えせ涙流して、その気になって書いた手紙に、どれだけの意味と価値があるというのか。

私は、被害にあわれた方を軽んじるつもりはない。

日本人にも、ほんの少し形が違うだけで、それら同様の、あるいはそれ以上の痛みを強いられている被害者達がわりとすぐそこにいるんだって事だ。
日本人だから、ニュースでも目立たないし、みんながス〜ッと忘れやすいってだけ。

しかしそれならば、その外国人の被害者以外の方々にも、全員平等に、いちいち自治で募金集めてやらなきゃ、筋が通らないだろう〜?
私はそう思っちゃうってわけ。

だから、そういうことがあるから、この国には社会保障制度があるのだし、法律があるのだ。

なんか目立つ時だけみんなで「いい子ちゃん」になってやしないだろうかと。


お金を渡して『す〜〜っ』とした気分になってんじゃないだろうかって、そー思っちゃうわけ。


ひとり1,000円でもそういう話だとすぐに5000人くらいは集まるよ。
でも、お金渡せばこの国が嫌われないってわけじゃないんだよ。
お金を渡せば、地域が良い自治だってことになるわけじゃないんだよ。
たまたまの一人に募金集めたら、他の場合の、過去に事件に巻き込まれて悲惨な目にあった外国人も、日本人にも、募金集めてあげなければいけなくなる。
社会の枠組みを無視し、個人の主観で行動することも悪いとは言えない。
悪いとは言えないのだ。
言えないからこそ難しい。でも、本当の社会における正義に向き合うのなら、きっと方法を変えなきゃならなかった気がする。



お金。それは簡単な方法だ。
それより、お金ではなく、自治で知恵や継続的な予防措置や行動を、自治の全員で同じ方向向いて出来るかってことの方が、はるかに需要。だってそうすると無関心で、逃げる人がたくさん出てくるから。だからまた似たような事件が起きてしまう。
お金で済まして、なんかやった気になっても、実はいわばもっと危険な自治になっているだけだったりしてね。




日本人は、とにかく外国人というだけで謝るのが好きな国民性。
そう教わってきちゃった歴史がある。
大東亜戦争後、GHQ 政策の悪意に満ちた指導教科書で、
「日本人は悪いことばかりしてきました・・・」
ってさんざん洗脳されてきたから、そこから変れない人が多いのだと思う。あの小学校時代から、戦後の正しい歴史を、学ぶ機会がないのだろう。
とにかく、アジアにもアメリカにも、ソビエトにまで、悪いのは日本人ばかりだと、徹底的に洗脳されている。
ドイツにいたっては、ナチスはドイツじゃない・・・みたいに書かれていて、悪いナチスの後ろに良いドイツが隠れていたみたいに教育されていて、戦中の日本人とナチスをなぞらえる日教組教師に教えられてきた。
だから潜在的に、どこの国の人に会っても、昔の日本の事になると、『とりあえずすみません』みたいな。
あほか。



タツに座ってみかんの汁飛ばしながら謝りの手紙書いている暇あったら、あなたのために血眼になって働いているあなたの亭主に感謝して尽くしなさいと言いたい。
家庭の主婦が直接まったく関係ない外国人の方に謝りの手紙書くって・・・・・、どうしてそういうロジックが起き得るかねえ。



自治会もいいが、人類はこのような様々な間違いと、悲しみの積み重ねの中で多くを学び、その帰結として知恵を積み重ね積み上げて、法律、憲法そして社会保障制度などを作ってきた。
それらが完璧だとは思わない。
そして、自治や個人での努力も反論はない。
しかしそれは、個人へ向かっての物なのであれば、社会という共存環境での正義とは言えなくなる気がする。
主婦が被害者に必死に泣いて謝るのではなく、また、自国を卑下して媚びるのではなく、政治を動かす努力を、地域で行うことこそが、本来の役割なのではないかと思うのだ。


個人へ募金することを悪いとは言い切れない。
そしてその内容がデリケートな問題であればなおさら、良いことをしたという世論に対しては、無条件降伏で反論できない風潮が出来上がる。


しかしあの時すべきだったことは、本当に募金だったのだろうか。
どうしても解せない。
ただ、何かをしようと思って、最初に声をあげた自治会長には、私は中傷は出来ない。行動を起こした事に、私は何かをいう権利はない。その勇気の語る権利もない。



でもまた誹謗中傷コメントが書かれるかも。

でも今回は消しちゃいます。どんどん。

まあ、俺も、ちょっと言いすぎっぽいところあるけど。

そういうところあったらごめんなさい。

でも、むしろコメントではなく、記事の内容で議論するしかないね。ブログだもん。


中にはコメントなどを書けないブログもあるんだね。常に一方的。私が知るところによると、コメント出来ないブログで、常に一方的に発信しているページは、常に批判と背中合わせな人に多いと思った。


ブログも気をつけないとただの落書きの垂れ流しになりかねない。
そもそも本人のマスターベーションであるブログだが、共感者も多いものだ。
私はブログをやるようになって、自分と同じような気持ちの人は意外と多いものだなあと、とても嬉しい気持ちになった。皆に感謝している。



だからこうして書いてみました。禁断の削除『回』の内容を。