国防と戦争

何年前だったか、【亡国の イージス】という映画を観て、あまりによく出来た脚本だと感動し、すぐさま発売された【DVD】まで購入したことがあった。

3回くらいは見ただろうか。この映画のセリフで,

【よく見ろ、日本人。これが戦争だ】

というセリフがある。

この言葉を聞いた時は、日本人が【戦争】の備えを怠っていると言う事だと思っていた。

世界の実情を見て見ぬフリをし、支那や半島を純粋まっすぐ君だと信じ込み、アメリカのポチであれば平和が続くと信じている国へのセリフだと思っていたのだ。


しかしよく考えてみると、日本は軍備で言えば、日本の自衛隊の防衛費は金額的には一貫して世界的水準だ。
日本人の国民のほとんどが戦争をする心の準備が出来ていないことは圧倒的事実だが、かといって、日本人の心が、戦争をするに見合う心の備えが整っていたとしても、その事がイコール【戦争をすることができる国】だということを意味しているわけじゃないとも思えるのだ。


【戦争ができる国】というのは、その国の政府が【戦争ができる】だけの戦略を普段から想定しており、戦争によって、国益を成す選択を常に想定している国、政府であること、そしてその国の国民が、【戦争ができる】心構えをほぼ備えていて、国益やテロへの仕返しなどに対し、仕事として、あるいは国を想って戦争に行くために望んで兵士なったり、または、強制的にでも兵になるシステムを国に有しており、それを国民として受け入れている国、政府、国民のことである。

当然言うまでもなく、日本は戦争ができない国だ。

上記のように考えてみると尚一層、日本は戦争が出来ない国である事がわかる。

軍備がないからではない。世界で軍備予算的にはトップクラスの自衛隊がある。

憲法九条が規制しているからでもない。九条は実質破綻しているに等しい。自衛隊があるし、海外派遣しているし、そもそも自国民で作った憲法でもない。


日本が戦争ができない国である理由は簡単だ。

【戦争とはどういうものか】敗戦後から現代にかけて、ほとんど考えずに来たからである。考えたくなかっただろうし、考える人を排除しようとする日本人が圧倒的に多いからだ。これは現在でも同じである。


それはそうだ。【戦争ができる】状態というのは、自分の国の国民、つまり、父親や息子、時には女性を含み、多くの家族や同胞を戦争で失い、尚且つ、ふるさとや日本が誇る都市やインフラが破壊されるという一部、限定的な損害を認め、含めて、それよりも戦争を行い、勝利に賭けたほうが利益やメリットが多いという、政治的に判断をた軍事的選択を、躊躇や逡巡せずに、政治家が選択できるということである。


たとえば、日本人がいる事がわかっている都市やビルがあって、そこを攻撃したり、巨大なミサイルで一挙に破壊することが戦略的に重要であれば、自国民もろとも破壊することを辞さないような、強心臓と決断力と、精神力をもつ人間しか戦争を遂行できない。

戦争時に次々に訪れる選択肢はこのような決断の連続となる。

そもそも、日本の兵に対し、【どこどこ行って、外国人やっつけてこい!】という命令を出す事自体で、すでに返り討ちで自国民が多数犠牲になる事を想定しているわけだから。

広島に落とされた原爆では、米軍や他国の捕虜をも焼き殺しただろうし。

東京大空襲でもアメリカ人が虐殺の犠牲となり、焼き殺されただろう。


現代の日本人にそれができるか。

国民のほとんどは出来ようはずがない。

私が出来るだろうと思える政治家は、安倍総理だが。



戦争ができる人間というのは、軍事的な戦略判断の上で、出来うる限りのすべてを計算し、その判断や考えの規準の中に、【人間の心】を見ないでいられる人間のことである。


今の日本の一般国民には、そんな人間はいない。

たしかに、今の日本は、経済的、利益至上主義的なバランスシートの上では、高い能力にてすべてを計算し、人の心も、人の顔をも見ないで、澄ましている、澄ませていられる人間はいくらもいる。

こういう日本人は、他人が経済的に破滅することを前提に、その代償によって自分が利益を得ることに、まったく少しの疚しさや痛みを感じないでいられ、それが経済であると思い込んで聞かない者たちである。


金を儲けて自分だけいい思いをしたいというのは、世界中の人間の、尽きるところ個人的な欲である。

自分さえよければそれでいいと、実はほとんどの人類はそう考えている。

きれいごとを言ってみても、Aさんには10億、Bさんには10億の借金、と、究極の選択となれば、迷わずAさんを選択する。

日本に有事がおきれば、資産家たちはあたふたと、その個人資産を抱えてカナダにでもオーストラリアにでも逃げ出すだろう。

国を守るという行為は、個人ではありえず、成し得ない。

日本が軍事的危機に陥ったときに、われさきに安全な外国に逃げ出すような人間には戦争を遂行することはできない。

戦争ができる人間の条件は、自分が死んででも、家族や同胞を守る覚悟のある人間のことである。

家族や同胞を守ることの代償として、自分の人生を賭し、命を捧げることができるような国と言う共同体への無償の愛を、得た人間のことである。

そもそもその同胞の中には、意見を違える人間もいるし、宗教的な信仰や、人生の価値観を異なえる人間たちも含まれている。

つまり気に入らないタイプの人や、これまでの人生でどうしても仲良く慣れなかった大嫌いなやつも含まれているのだ。

あんなやつ死んでしまえ!と憎んだことが、過去1度くらいは皆あろう。

そういった人々を含めて、同胞を命に替えて守る覚悟のある人間にしか戦争はできない。


そんな人間は今の日本にはいない。

間違いなくそのような成熟した大人の国民はいない。

そもそもそのような人間を形成するための文化や制度的基盤は、日本社会のどこからも消えうせ、そして存在しない。



最適な戦略的選択のために、どのような軍事的選択をもためらわない非情さと冷血さ。

そして、同胞に対する、差別ない愛の遂行という矛盾。

それを同時に引き受ける。

その矛盾を至極当然のように引き受け、かき回され、翻弄されることを常態化されてもそれを受け入れること、それが戦争ができる人間の条件である。
しかもそれをすばやく考える前に考えるほどの本能的なレスポンスで行動に移すことが出来ること、それが戦争のできる人間だ。

私はこの、日本は戦争の出来ない国だという言葉を、こんなふうに理解した。

国を守るというと、日本人はすぐにマイナス思考に陥る。

戦争好きとか、右翼とか。

それは幼い頃から、そのように教えられてきたからに過ぎない。

団塊世代は敗戦後、完全にアメリカのウオー・ギルト・インフォメーション・プログラムに洗脳され、その団塊世代に育てられた現代人が現在の経済の主役となっている。



愛国心や国防について、非情に声高に語る日本人もいる。

怒号のように。

しかし、どうもいまいち私は彼らを信用出来ない。


彼らは同胞を無情の愛で守ろうとしているのではなく、彼らは、意見の相違を見る外国人をぎゃふんと言わせて、力で抑え込んで、勝利の味を噛み締めたいだけのように見えるからだ。