「知識」を知る『知識』

あまり上司の事とかを、とやかく言うのもどうかと思うけど、でも、話には『例え』(たとえ)が必要。だから書くけど・・・・。

昨日TVタックルという番組を観ていて感じた。
そういえばいつから日本人は、みんなで「辛口」な発言とか、「毒舌」な発言を好むようになったのだろうと・・・。
人の話の腰を折り、
人の話に割り込み、
言葉で人を追い込み、
相手の意見を切り捨てる。
凄い人達ばかりになった。


そして思った。
そういえば、会社の上司にもそういう人が多い。
組織の中、自分の一番嫌いなタイプの上司。たとえば、
「おまえ、そんな事もわからんのかよ〜〜」
と、自分の方が知っている量が多いからといって、自分より知っている量の少ない後輩を、落としむる言葉使いをする人間だ。


『ある分野の事について知っている量』


これは知識とは言わない。
本来知識とは、自分の保有している知識を、冷静に理解する事が出来るような『知識』を保有している事、またはそのような状態を前提として語らねばならないと思う。
「知識」を理解する事の出来る『知識』のことだ。


知っている事が多いからといって、その知っている事を活かして何かを創造したり、人の為に役に立ったり、人を幸せにできるというわけじゃない。

しかし先輩社員や上司に居がちなタイプ。「おまえ、こんなことも知らないなら、発言を聞く気はねえぞ!」と、知っている事の数(量)が多いことをひけらかし、上司面する。

しかしこのようなタイプの人間は特に、その『知っている事』を活かして、何かを生み出すようなイノベーション的創造が出来ない。
このような人は、人の(部下や後輩)短所やとるに足らないような小さな所作の違いにとても敏感に反応し、ますます攻撃の手を休めない。
しまいには、相手が自分に自信を失い、明日への希望も消え去るまでいじめ抜くのだ。
そこまでする理由が、今月の売上予算が未達成だから・・・・・なんていう、今生の世においては取るに足らない理由であったりする。
先日私がヘルニアで欠席した私が責任者を勤める事業の会議で、

「ボケ!」
「カス!」
「死ね!」

とのたまわった人。相手をねじ伏せ破壊する事で、『壊す!』という創造を行なったように見える作業である。
実は、そこにあったはずのものを破壊し、なくしただけで、何も創造していない。

日本の50歳の言動である。バブル期に社会に出た世代に多い。

決して指導を狙った物ではなく、自身の感情からくる「呪い」の言葉。彼は過去、自身自体で何かを生み出し創造したことがない。
人を指摘し、粗探しをする作業が、時代の風土に合い、あたかも必要な存在のように見えた、あるいは現代はそういう者が必要に見えてしまう時代なのだ。
呪われた時代である。

実際事実、言葉でなじられ、怒鳴られ、叱られ続け、自信を失っている後輩や部下の方が、直接対話を深めて肩の力を抜いてやると、よっぽど素晴らしい戦術を生み出す。

上司は、部下に「やれ!」「考えろ!」と追い込むだけでは自身の成長は止まる。止まっている事にも気づかない。


このような言葉使いや、知識の無駄使いが際立っている現代。
日本は最近、完全にこのような人間に汚染されてきた。このような言葉には、人の尊厳を含め、『壊す』ことしか生まない。
『壊す』という作業は、万人に対して、一見して分かりやすい結果が出来上がる。つまり、何かをした!という実績が、伝わりやすいのだ。
1,000年の歴史の積み重ねによって出来上がった遺跡を一夜にして灰と化すことと同じである。
何かを『創造』することと比較すると、壊す事はいたって簡単である。
やったもん勝ちであり、一見してその成果が見えやすいものなのだ。

しかし創造するのはそうそう簡単な事ではない。
実は創造とは、自分をすべてさらけ出す作業であり、実に具体的なことである。
辛口や毒舌や、言論攻撃などで破壊をし、その残骸だけで達成を覚える人は、物を創る事を嫌う。逃げたがる。
なぜなら創造することは自分を白昼堂々とさらけ出す事であり、評価の的に自ら飛び込む作業だからである。
人を攻撃する事に長け、破壊する事で創造したような虚像を頼りにしている者は、「そんなものは仕事じゃない!」風な発言を繰り返す事によって自分を『全能的』な立ち位置に置こうとしている。
しかし創造する事は極めて具体的なことであるから、自分を冷静に世論から評価される的となる。
時に小さく見えることもあろう。
自分に『力』があると誇示しようとする者は、他人や部下の努力を無慈悲に批評する事で自分の立場を確認し、確認させるような活き方を選ぶようになる。

そういう先輩や上司を物凄く見てきた。

結局自分の正味の実力に自信がない者は攻撃的にする事で自分の立場を確保し、全能的に着飾る。

攻撃が最大の防御なのだ。

組織においても同様。
自分で自分の仕事を抱え、丁度よく負担化し、領域侵犯に対して過敏に反応し、攻撃的、抑圧的な所作によって個を確定させようとする。
何も創造せず、周りへの攻撃と破壊によって、個の立場を担保する。

そういう人が増えた。
いや、昔から居たのかもしれない。
震災の経験で、日本人はそれではいけないと、少し感じ始めているのではないだろうか。
政治の世界でも、マスコミ、メディアの世界でも、自治体でも民間利益集団においても、だんだん、

(・・・・・なんだか、このままじゃいけないんじゃないだろうか・・・・・?)

と、思いはじめてやいないか日本人。

呪いの国から美しい国へ変化していけるのだろうか日本人。