場〜〜〜院!

照れくさくて、あまり書きたくない事だけど、私にブログのことを教えてくれた君に、そして、閉ざしてしまった君の心に、もし少しでも暖かいウイスキーを入れてあげられたらと思って。
出会ったばかりの君に、こんな話もどうかと思ったけど。



ま、よかったら読んでよ。



人の言葉は心の底から人を傷つけてしまう。
その痛みは、その痛みの経験を知っている人にしか分からない痛み。
同じ想いをしたことのある人にしか分からない痛みだ。
脳の中に入り込んだ時からのそのうごめく怒りに、何度も人格が負けそうになりながら、それでも必死に、守る物があるからと、動かぬ首を軋めながら、前を見る。
言葉は人を深く傷つけ、取り返しのつかない暴力となる。
エスカレートする攻撃者の錯乱した言葉は、無差別に虐殺する大空襲のよう。
爆撃されたあとに残るのは、美しかった町並みは原型を失い、焼け爛れた廃墟と、焼けすぎて溶けている皮膚を巻いた、肉の塊。もう人の姿ではない。ひとつ間違えば、りっぱな殺人と成り得る『言葉』の連続。
もはや、正義が何か、悪は誰か、その判断すら意味がなくなっている。



問題を解決するに必要な物は『時間』である。
今はもう一度、リミットを越えたから、もう一度改めてラインの前に立つときだ。
そうしてもう一度ゆっくり一歩を進める。
そうして時間を味わう。ゆっくりと歩く。
怒りと憎しみを確実に持ち合わせながらも、それをそっとそのままにしておく。
それはきっとしなびていくから。
だんだんと・・・・・。
餌を与えられない怒りは、そうしてきっとやせ細っていく。
そしていつかたどりつく境地に待っているある言葉。

『まぁ、いいか。』

そう。まぁ、いいか。
そう言ってみるとそのとたん、何事もなかったかのように、許せる時が来るかもしれない。
来なくっても、でもきっと少しだけ、透き通る風が、体を突き抜けるよ。
ス〜ッとね。




私も・・・・・
もっと若かった頃。
未熟な自分を棚に上げ、何度も納得できない大人に反抗し、敷かれたレールから脱却するしかなくなって、結局望んだ自分の歩む道を変えざるを得なくなった時・・・。
その度に、自分はなんて遠回りな生き方をしているんだろうと思ったりした。
間違えたのではないか?
違う道だったんじゃないか?



でもそれらの障害を乗り越えたとき、振り返るとその道が、実は自分の人生にとって最短距離であったのだと、そう気付く。
そう思える時が来る。
そうやっていつも自分を見つめてきた。
それでも自分の考えや行動が、自分の言葉や文字が、常に賞賛されるわけなどない。
そうして思い通りにならないことの連続と、自分の力のなさを垣間見て、そしてまた自分が描いていた道と、実際に歩む道の選択の、その微妙な違いに、溜息ついたりしてる。
迷う自分の心が、さらに自分を蔑んでしまう。



しかしどうせ行く道ならと、その道を一生懸命歩んできた。
どの道を歩いたところで、どこも苦しい道なのだ。
自分の感受性をあざけ笑うかのように、どうせ困難な障害が待っている。
だからどうせ歩くなら楽しもうと、その景色を最大限楽しめるように、自分の感性を磨いたりしてる。
感受性が良い方向に向かう事もある。
しかし私は、まるで自分の感受性を恨むように、人の言葉に傷ついてしまう弱い自分にがっかりする。



でもそうして生きるのだ。
振り返れば何度も後悔してきたが、その代わりに得た、かけがえのないものがある。
振り返ればそこに確実に幸せがあった。
私は確実に幸せに生きている。




立ち上がれ。
前を向くのだ。
君には待たせている人々がいる。
『私心』を押さえ込み、『公』(おおやけ)を見るのだ。
人はひとりで生きられない、
ではなく、
『人は一人で生きていない』のだから。
僕の親友の言葉だよ。