恩師

私には恩師がいる。米川英則さん(米さん)という。
もうこの世にはいない。今は私の心の中で生きている。
今から10年前にあっちに逝ってしまった。
何か困難にぶつかったり、迷いがあったりすると、必ず声が聞こえる。


「あほかおまえ〜〜」


小学校2年生の時から聴いてきたフレーズだ。約25年間に亘って、
一日に最低でも1回は聴いた言葉だった。
水泳のコーチであり、人生を教えてくれた師であり、中学2年で寮生活を始めてからは、父親のかわりでもあった。
私の本当の両親は今でも健在だ。しかし、両親はことあるごとに、
「私たちの言う事は聞かないのに、先生の言う事はちゃんと聞くんだから」
と、よく小言を言っていたものだ。

ひげもじゃで、低い声で、目が大きくて、顔がでかい。
子供の頃は、近くで見られるだけで足がすくんだ。怖かった。
しかし、なぜか暖かさを感じていた。何でも教えてくれる気がした。
実際、色んなことを教わった。

好きな女の子の口説き方。
女性にふられる時の心構え。

勝負に勝つ方法。
やせがまんのコツとか。

水泳のコーチなのに。

こうして思い出すと、なんだかたいしたことは教わっていない気がしてくるのだが、なぜだろう、私は米さんに自分の人格のすべてが影響されているという息吹を感じるのだ。まるでコピーのようにすら思える。

不思議な人でもあった。金遣いが荒くて、一緒に仕事をしている時期は本当に苦労した。けど、全然嫌じゃなかった。決して自分だけの為じゃなかった。
スイミングスクールの経営をしていたのだが、スクール生がなかなか集まらなかった。私と「粂川正一」さんとの二人で走って必死にビラ配りをしたがだめだった。水道料金を延滞し、スイミングなのに水を止められたこともあった。
電気が止められるのは別に珍しい事じゃなかった。月に2回くらいは普通だった。
会社に全然お金がないのに、金庫のお金を全部握り締めて、私たちを連れて焼肉に行く。食べる食べる。食べ方にルールがあるが、それは割愛する。
会社に全然お金がないのに、BMWを買ったりした。リースだが。
会社に全然お金がなくて、私は2年間、給料が0円だった。
でも、米さんと仕事が出来ていればそれでよかった。それが本当に幸せだった。一緒にいられることが一番だった。そう思える人だった。
できればずっとそうやって米さんといたかった。
しかし、私は米さんのもとを去った。同世代の仲間はどんどん社会進出して、立派に仕事をし、稼ぎ、結婚したり、家を買ったり、社会の一員として成功しはじめていた。私は焦り始めていたのだ。
米さんのもとを去るとき、こう言われた。
「どこかの会社に入社できたら、3年我慢しろ。」
3年我慢する理由をたずねると、「3年我慢すれば、お前なら周りが勝手に負けた〜〜っと感じる時が来る。その時に意味がわかるから」という返事だった。
現在の会社に拾われた時は、中途社員募集の年齢制限27歳を越えた、30歳の時だった。よく採用してくれたものだと思う。
3年後、役職をもらい、さらに3年後、生産現場の責任者に任命され、営業職を経て、さらに3年後、拠点責任者となった。
その間、多くの先輩を乗り越えていった。私の出世をきっかけに退職された仲の良かった先輩もいた。
そんな時、仕事をがんばる事に、むなしさを感じた。そして、毎回、3年ごとに辞めたいと思ったものだった。その度に、もう一回3年!と米さんを思い出し、乗り切った。
そしてまた3年後、関西エリアの責任者となっている。
不思議な人だ。なぜ、私のことがそんなにわかるんだろう。最初の3年が来る前に、米さんは逝った。
だから、約束を守った。約束を果たそうと思い切るたび、米さんを偲んだ。

やっぱり不思議な人だ。コピーと言ったが、やっぱり全然真似できない。

同じ教え子に「長畑弘伸」さんがいる。ソウルオリンピック選手だ。彼は競泳水着などの最大手ブランドである、「Speedo」の販売代理店を経営している。また、トゥリトネスの「不破央」さん(世界選手権入賞者)など、水泳界にそれぞれの存在感を示して活躍している。
前出の「野口智博」さんも、一時、米さんのもとで練習をした。

米さんに一番近くに居た私は、しがないサラリーマンとなった。
そう導かれた気がする。

不思議な人だ。米さんは私に対して本当に多くの経費をかけたと思う。お金に返られない心の経費だ。
私なりに、その「恩」を、私と関わる人たちに少しでも返していきたい。
心の経費ならいつでも、いくらでも使えるからだ。
使っても減らない、むしろ使えば増える心の経費。米さんが私や、多くの教え子たちに使ってきたあの思いを、ちゃんと継承しなきゃならない。
それが教え子の使命だ。
そして、今でも米さんは私に心の経費を使っていると感じる。

人生はつらく悲しいことばかりだ。だからこそ喜びがある。幸せは振り返った時に気づくものだ。今を生きるとき、なかなか幸せに気づけない。

米さんは一度も「経費かかるなあ〜」なんて言わなかった。