ふわ ひさし

不破央さん。(央《ひさし》)
以前、ブログで彼との関係と、積上げてきた歴史、そして、互いの共通の師匠が、「米さん」であることについて触れた。

私は中学2年生で寮生活に入り、同時に入寮した央は、中学1年生だった。
互いにまだまだ子供だったし、私は年上だけど、もっと子供だったと思う。
学年で1年先輩だったにも関わらず、私は央に対して良い先輩ではなかった。いい先輩がどんな先輩なのか、考えるすべもなく、2人に与えられた先輩10人分の洗濯や、雑用、深夜までのマッサージ・・・・・。
水泳でチャンピオンを目指す為に東京に出てきたのに、寮生活の実態は、水泳意外での異常な苦労生活だった。
だから、私は常に心が崖っぷちだった。
寛容さを失い、雑用の量がどちらが多いか少ないかで、私は彼に食いかかり、それで喧嘩になって、必要なこと以外、話す機会も減った。




もともと富士のスイミングで一緒の間柄だった。
当時は私が彼を「ふわちん!」と呼び、彼は私を「けんいっつあん!」と読んで、とても仲が良かった。練習が終わったロッカーで、お互いのチンチンをさわりっこして、キャッキャ言いながら逃げて、そんなあどけない子供同士の悪ふざけに、互いにちょうどウマが合った。




米さんは、そんなあどけない子供だった私と央の両親を説得し、東京へ呼び、寮生活をさせた。そしてたった3年で日本チャンピオンに育て上げてしまった。私と央は、高校生になった時、すでに大学生にも社会人にも勝利し、そして日本の中のゴールである、日本選手権を獲得した。




本当は私と央は、同じ師匠に育てられ、可愛がられた同士だったはずだった。しかし、幼い私たちが送った寮生活は、残念なことに、険悪な関係を作る事にかけては、最良の環境だったといえる。
しかしせめて1年先輩の私が、もう少し人間的に彼に対して暖かい、包容力を持っていたら、そんな冷めた関係にはならなかったかもしれない。それは心残りであり、後悔の気持ちでもある。



しかし私たちは、心の底で、米川先生の教え子であるという、その理念において、強くつながっていた。
だから高校も同じ高校へ行き、大学も同じ大学へ進学した。互いに経験するステージとそれに関わる濃厚な友は、微妙に違ってはいたが、根本的に選手という時代を演じる舞台は、同じ舞台の上に立ち、少しはなれたところで互いに少し意識して、そして共に最後まで同じ舞台に立っていたのだ。



それでも社会人になり、互いに波乱な生き様を演舞する中で、世間の冷たさを知り、また、人のやさしさに触れ、恩師を共に亡くし、心の傷の数を積上げてくる中で、互いの現役時代の歴史と、一番良かった時の米ちゃんずというチームの事を、自分なりに少しづつ、そしてお互いに総括する作業が出来てきていたのかもしれない。




ずっとずっと長い時間、水泳に関わって生きてきて、一番古くからの絆があって良かったはずの私達だったが、思えば水泳を引退した後は、ほとんど会うこともなかった。それに、結局一度も顔をつき合わせて酒を飲んだこともなかった。
思い出話をすることもなく、未来を語る機会もなかった。それぞれに、新たな友と出会い、それがそれぞれを支えていたのだろう。



私は個人的に、近年彼との関係に対して、とても後悔していた。しかしその一方で、米さんという恩師のもとに、私と央は絶対に心の底でつながっている気がしていたのも事実だった。
だってお互いライバル意識だってあったと思うし、田舎の両親にも、いいところ見せたいと思うからこそ、競争心もあったし、だから互いに対して緊張状態だったのかもしれない。




2日前、日本の競泳短距離の世界と常識を大きく変えた往年の名選手である、藤原勝教さん(かっちゃん)が亡くなった。
私は引退後、かっちゃんと親しかったわけじゃない。でも、現役時代は試合会場で会えばよく話すし、とても仲の良い相手だった。水泳に対する真摯な姿勢は、私を大いに刺激してくれた。
シャープで美しいストロークに、ダイナミックなキックが特徴のかっちゃんの泳ぎは、レースに出場するたびに観衆をどよめかせ、常に記録を更新させていった。



そのかっちゃんのお通夜が昨日行なわれた。
あまりにも早く、信じられない古い友の訃報。
私は自分がたまたまでも、大阪に勤務していた事で、お通夜に参加できるかもしれない状況となり、仕事のスケジュール調整をし始めた時だった。
央からFacebookを通じて、メッセージが届いた。
「賢一さん、今日今から、藤原かっちゃんのお通夜に向かいます。良かったら賢一さんの家に泊めていただけませんか?」
という内容だった。


正直言って意外だった。央は私をあまり好きではないはず・・・・・。だから、私の家に来るなんて、ありえないと思っていたのに、央の方から泊めてくれって言うんだもの。
でも、なんだか運命の流れを感じた。私は、央と話したいと思っていることが、様々な自分なりの過去の総括の中で、とても増えていたからだ。
話したいことが山ほどあった。



かっちゃんのお通夜で、私はかっちゃんが現役時代に獲得した、様々な栄光の証明である、縦や、トロフィーを見たとき、涙がどっと流れた。何も知らない幼いお子様を見て、ニコニコと手を振るお子様の顔を見て、また泣いた。でも、もっともっとかっちゃんと仲の良かった方々が大勢居る中で、私が涙を流しているのも場違いと思い、ハンカチで拭い、姿勢を正して慰霊に対した。
央はかっちゃんと、多くの深い歴史があったようであり、東京から飛んできたことで、きっとかっちゃんはこうな風に言っているんじゃないかって思った。

(ひさし〜。そんな遠くから何しに来たのお〜?・・・・・)



藤原のかっちゃんの思い出話をしながら、私は車に央を乗せて、自宅へ帰った。

車の中で、私たちは一瞬にしてまだ幼かった、寮生活を始める前の関係に戻った。幼かった頃の二人のような関係だ。
そして積もりに積もった互いの気持ちを、素直にストレートにぶつけ合った。どんどん話は盛り上がり、互いの現在の話も含め、さらに、長畑弘伸さん(ボブ)の合流も手伝って、どんどん深みにはまり、まったく尽きる事がない。
私と央は、明らかに関係が変った。昔に戻った。いつの間にか、幼かった頃の、むしろ互いが大好きだった頃の関係に戻っていた。だから、とても楽しかった。
思い出話と、それをジェスチャー豊かに話す央を見て、私とボブは腹をよじらせて爆笑した。


腹筋が筋肉痛だ。



おこがましいかもしれないが、藤原のかっちゃんは、大阪に赴任してきた私への気遣いと、東京からわざわざ飛んできた央に、ご褒美として、最後に私たちにプレゼントしてくれたのかもしれないって思った。
それから、私と央とボブが、3人で会い、3人で語り明かし、顔をつき合わせて酒を飲むという、出合ってからとても長い関係でありながら、そして、ひと時は、一番濃密な関係でありながら過去一度も経験した事のなかった、生まれてはじめての機会に、私たちの師匠である「米川先生」は、きっと心から喜んでくれたはずだ。
ちょっとテレながら、「あほかおまえ〜」と、そういうんだろうと思う。
本当に楽しい時間だった。
気がついたら朝の5時だった。
時間を忘れて語り合い、まったく疲れなかった時間。
それでもまだまだ時間が足りなかった。
もっともっと話すことがある気がする。
そしてここに、
鈴木さん、
塩田さん、
修さん、
金田さん、
堀内さん、
和周さん、
久山さん、
敦夫さん、
仲田さん、
てつ、
田川、
しげる
ちんた、
千洋さん・・・・・。
達が居てくれたら、どんなに楽しい時間だっただろう。きっと1ヶ月くらいないと、話は終了できないと思う。


央は現在、様々な場所で「講演」を行い、子供たちや青春待っただ中の多感な子供たちに、勇気を与えている。
また、スイミングスクールや、会場で、「水の道化師」という水中パフォーマンスを提供している。多くの子供たちが憧れ、水泳を愛し、練習に励むきっかけとなっている。
そう。水泳界に対する貢献事業である。
央の社会への貢献は、自身が愛した水泳の素晴らしさを社会へ伝え、さらに深めるという形を以って行なわれているのだ。





ねえ米さん・・・・。
俺、うれしいっすよ。この歳になってまたあいつとこんなに仲良くなれて。(別に仲悪かったわけでもないけどwww)
だってNASの同士だもん。そうでしょ?
先生もうれしいっすよね?
俺もボブも央も、最高の気持ちですよ。
かっちゃん、今回はありがとう。安らかに眠って下さい。
かっちゃんの分まで、みんなでまた、それぞれの形で水泳を愛していくからね。

それと・・・・・。
ジョン、昨日はありがとうな〜!(爆)