髭の顔

私には師匠がいる。

が、もうこの世にはいない。

10年前にあっちに逝ってしまった。

3人の子供と、若く綺麗な奥様を残して。

それと、俺達教え子を残して。

名前は『米川英則 先生』。

亡くなる頃は、先生とは呼ばず、米さんと呼んでいた。
米さんがそう呼べって言ったけど、今思えば、『米さん』だなんて呼ぶんじゃなかった。
米川先生って、死ぬまで呼んでいればよかった。

過去にも何度も書いた。


http://d.hatena.ne.jp/sumikenn/20110210/1297303505

http://d.hatena.ne.jp/sumikenn/20110522/p1

http://d.hatena.ne.jp/sumikenn/20110616/p1

http://d.hatena.ne.jp/sumikenn/20110616/p2


水泳のコーチだった。私との出会いは、小学校2年生の時である。
顔じゅうヒゲもじゃ。身長180cm。今の私より大きい。
迫力が凄く、声が低い。
静岡県富士市のスイミングスクールの支配人であり、選手コースのヘッドコーチであった。
小学校2年生の私にとって、時々スイミングで見かけるその熊のような恐ろしい大人は、恐怖そのもであった。
スイミングで姿を見ると、パッと隠れる。目が合うと話しかけられるからだ。

「おうっ!けんいちっ!なんばしよるとか!」

この声が恐ろしかった。

洞察力は並外れていた。
強くなる可能性を秘めた子供は、四泳法のテストを合格できなくとも、さっさと選手クラスに上げてしまった。
俗に言う子供の運動神経を洞察し、話しかけ、対話する事で中枢神経の伝達スピードを確認し、将来性を一瞬にしてイメージする。
イメージしたものが選手としての大成であれば、選手クラスへの合格ラインに達していなくても、どんどん選手クラスに上げてしまった。

私のそのうちのひとりである。
選手クラスに入って数ヶ月で、富士市でトップになり、さらに数ヶ月で静岡県でトップになり、1年で全国大会に出場した。
私だけではなく、他にも大勢の優秀な子供たちを育てた。
当時の選手クラスは30人くらいだったが、全国大会に出場する選手は20名以上いた。
どんどん有名なチームになり、米さんのコーチとしての名声も、水泳界ではどんどん上がっていった。
そしてその後、東京で強化チームを創り上げ、私をはじめ、不破央さん(現チームトゥリトゥネス主幹)、長畑弘伸(現スピード正規代理店代表)や、その他にも大勢の日本選手権出場者をひとつの寮生活で集中的に鍛え上げ、日本チャンピオンを育て、日本水泳界の礎となった。
上京し、寮生活に入った中学時代から今まで、結局両親とは暮らしていない。
寮生活で上京し、高校大学と進学し、ずっと親とは暮らせなかった。
多感な青春時代。両親とは別に暮らした。両親は私の青春の時を、華やかな水泳の大会での姿でしか見ていない。
16歳前後でありながら、日本のトップクラスで活躍する息子が、子供の理想的な青春の時であると思い込んでいたろう。
もちろんそんなものは本当の子供の青春の時間とは言えない。

だから親子の接し方が今でもよく分からない。
小さい頃はただの、物凄い甘えんぼだったのに。親に甘える、垂れ目でボーッとした子供でしかなかった。





当時の日本水泳界は、今のように世界的に勝てる国ではなかった。
低迷している時代だったが、その分、日本水泳界が、もがきにもがいていた時代であり、革新的なトレーニングという意味においては、イノベーションそのものを体現しているチームが、米さん率いる、わがチームであった事は間違いない。


ひとつの時代を創った。
競泳選手としての結果だけではなく、米さんは日本水泳界の当時の競泳選手の憧れのようなコーチだった。
日本の多くの選手は、米川先生の指導を受けたいと、自分のスイミングを辞めて、わがチームに入りたいと申し出てくる事も少なくなかった。


米さんは、コーチの職を、『聖職』と捉えていた。
選手にとって水泳は趣味である。趣味は極限まで研ぎ澄ますからこそ楽しいものだ。水泳という趣味の、極限の姿は、オリンピックの金メダルである・・・。そういって私を教育した。
一方で、水泳漬けになる毎日の中、水泳しか知らない『水泳バカ』になることを許さなかった。
言葉遣いや所作にまで、倫理と原理原則、道徳と正義、常に様々な課題に対して妥協をせず、生きることの何たるかを、私たちに指導し続けた。


『人に物を教えるなんていう仕事はなあ、聖職と捉えなあかんねや』


そう言って、自身の襟を正していたのだ。

だから私にとって米さんは、単なる『コーチ』ではない。
『師匠』である。


底抜けに深い愛情は、青春時代に私が好きになった女の子にも、隔たりなく注がれた。
初恋に破れ、涙した日も、私に暖かく、そして厳しく指導してくれた。


「男はフラれたときは、そうか、迷惑かけたなと一言だけ言って、スッと振り返って背中を見せて、黙って振り返らずに去るのみよ」

そう言って、恋に破れ、弱った私を


『男の人生やせ我慢!』


と言って、グッと奥歯を噛んで前を向く術を教えてくれた。
だから、その後の人生で、何度も倒れかけ、折れかけた時でも、あの時私の心に響いたあの一言が、何度も私を救ってくれたものだ。

『男の人生やせ我慢!』

そして私にとってあの時代は、我がチームの長畑弘伸さんも出場した、ソウルオリンピックの、あの鈴木大地さんの金メダルで、すべてが総括されたと思う。
米さん率いる私たちも、あれから大きく生き方を変える事になった。



小学校2年生の頃、恐ろしくて、怖くてしょうがなかった米川先生と私は、競泳生活とその後の、潰れかけたスイミングスクールの経営で、20年以上を共に過ごす事になった。


会員の少ない、経営の傾いたスイミングだったが、世界中のどこよりも愛が溢れたプールだった。
私はそのスイミングを、米さんの病が発覚する前に出て行った。
28歳の時だった。
もうすぐ30歳になろうかという年齢で、会員は少なく、プールでありながら水道を止められ、電気ガスは当然止まり、ボイラーも点かない日があるスイミングで、自分の仕事人生を終わらせるわけにはいかなかった。
どこかでやりなおさなきゃって思っていた。
そして、好きな人と仕事するってのは、もしかしたら上手くいかないんじゃないかって、だんだんそう思い始めていた。
私はもっと早く、米さんの元を離れ、巣立っていくべきだったのではないかと、そう思うようになっていた。


断腸の思いで米さんの元を去った。
去るとき米さんは私に言った。
『どんな仕事についてもいい。しかしまず、3年辛抱しろ!お前は辛抱が足らん!3年辛抱すればわかる事がある。おまえなら必ずステップが上がる。それまでは、何があっても辛抱するんだ。耐えられなくなったら、とにかく何も考えず、ただ会社に行け。』
一見、こんな単純なアドバイスない。
しかし3年というのは私にとって実に深い期間であった。

そしてやってみたら一番現実的なアドバイスだった。


3年間我慢した。
理不尽な上司のいじめにもあった。
無能なくせに威張り散らす、上司の風上にも置けない族が横行する現実のサラリーマンの世界で、私はいかに自分が優れた師匠の元で、愛されて育ってきていたのかを思い知らされた。
そんな時、
『自分はお前らとは違う。自分には立派な師匠がいる。だからお前らなんぞに負けるわけにはいかない、絶対に追い抜いてみせる。そして、俺が上に立ったら、そのときはやさしく思いやりを以って上司として接してやろう。』

そう考えるようにした。

4年目あたりから、30歳過ぎて入った中途入社の私が、生え抜きのプロパー社員をひとりふたりとぬき去った。
めんどくさいからと最初は拒んだ昇格も、会社が勝手に昇格させる程だった。
気がつくと、同年代でトップレベルの等級となり、いわば順調な出世街道を歩んでいた。
そしていつも米さんの事を思い出して生きていた。
一度たりとも忘れたことはない。






ベッドに横たわり、手術室に連れて行かれる時の、私を見る米さんの眼差しを、私は決して忘れない。
その眼差しは、小学校2年生の時、髭に覆われ、毛むくじゃらのメガネの奥から、ギロッと睨む米川先生の目に、震え上がり縮みあがったあの目ではなかった。
もう二度と会えないかもしれないほどの大手術に、奥様の規子さんも、弟の正則さんも、とめどなく流れ出す、大津波のような涙が止まらなかった。


手術後。
何度も会いに行ったけど、その度にどんどん痩せちゃって、
「米さん、もう長くないんじゃないっすか〜!」
なんて、わざとブラックな毒舌はいた。
見る見る痩せていく姿を、誰よりも分かっているのは本人だった。

もう分かっていた。

でも信じたくなかった。
けど、だからこそ変なウソつきたくなかった。
私たち2人の関係では、何っても思っていることがバレバレだったから。


何十人もいる教え子の中で、私が一番そばにいた。
でも米さんが一番可愛かったのはきっと私じゃなかった気がする。
でもみんなは私だって言う。
でもこれだけは間違いない。
米さんは、教え子に対する愛情に、順番なんてなかった。
痩せ細った顔で、もうロレツが廻らなくなっても、いつも教え子の話をして笑い、思い出話をして笑った。
米さんとは会うたび、同じ思い出話を繰り返した。
しかしその度に毎回、新鮮な話に思え、いつまでも話は尽きなかった。
一番近くにいて、まるで父親みたいだった米さんが逝く時、私はまだ東名高速道路の御殿場あたりを走っていた。


間に合わなかった。


『お父さん!すみよし君が今御殿場の辺りだって!がんばって!』

だんだん呼吸が弱くなる米さんに、そう奥様が声をかけると、もうきっとほとんど意識なんてないはずなのに、『ふふっ』と笑ったそうだ。
(何やっとんねやこんな時に。あほかあいつは〜)
きっとそんな風に思って笑ったんだろう。




最後、
『それでは皆さん、さようなら〜〜〜』
と、信じられないような言葉を言って旅立った。





間に合わなかった私は、米さんの魂が肉体から離れて2時間くらいして、米さんの遺体のそばに到着した。
もうみんなが到着していた。
昔懐かしい仲間たちがみんないた。
全員に看取られて、家族に看取られて、お別れの言葉であっちに逝った。


私の後輩や教え子の友人が、私が着くまで、米さんの息を持たせられなかった事を申し訳なく思い、私に泣き崩れて謝る。
気持ちが嬉しいが、私は死に目に会えなくとも、もう十分だった。
何度も何度も会って来たから、そして、誰よりも長く深い思い出があるから、もう大丈夫だよって言ってあげた。
私にそんな風に言ってくれる仲間が愛しかった。



だが私が米さんの死に目に会えなかったのは、私の上司が、私に早退させてくれなかったからだった。
代わりになる人などいくらでもいるであろうに、当時の私の上司は、過去、自分が会社の研修で、父親の死に目に会えなかったことを引き合いに出し、肉親でもないのに、会社を早退してまで向かうなど、許せないという事だった。

そのせいだった。今生の恨みといっても良い。



しかし米さんはもういない。
だからそれまでの話となった。その上司ももう恨んでなどいない。
あれでよかったのだろう。



以前使った写真だが。



練習中は、まるでカミナリのような声を出して怒った米川先生。
それなのに、こんなやさしい顔して笑う。
私はこの人に最高の思い出をもらった。
競泳選手としての栄光も、かけがえのない愛に溢れた思い出も、そしてこの世を強く生きる倫理と、世界を見渡し愛を以って、求めず与えよという理念で生きる心のあり方を教えてもらった。


でも俺、全然できてないけど。

でもできてないけど心の底にしっかり落ちている。

思い出すのはいつも、この髭の顔。