かあちゃん

「高草木 博」さんが、アメリカから我家に来た。
中学校時代の回で、転校初日に私をトイレに案内してくれた、20年来の友人だ。現在アメリオハイオ州に在住。グリーンカードを取得し、国籍もアメリカ人となった。
私は彼のお母様にとてもお世話になった。だから博との関係は、ことさら一言では言い尽くせない。
彼と最後に会ったのは9年前。彼のかあちゃんの1周忌の時だった。彼は仲の良い友人だけを呼び、墓前に連れ、お墓に向かって友人を紹介したのだった。
すでにアメリカに住んでいた彼は、アメリカ人の友人を連れてきた。アメリカンに私を紹介し、2名の外人と共に、かあちゃんの墓参りとなった。

私は中学校時代からかあちゃんに世話になった。博はお母様を「かあちゃん」と呼んでいた。
そして私も、博のお母様を、「かあちゃん」と呼んでいた。

私の中学時代はつらい毎日だったが、それでも学校が早めに終わった時などは、彼に連れられ、彼の家に上がりこんだ。
そんな時かあちゃんは、必ず、何か食べさせてくれた。
きっと、親元をはなれて、静岡弁のせいでクラス全員が敵になった私を気の毒に思ったのだろう。
かあちゃんは本当に気さくでやさしい人だった。
博とかあちゃんの会話は、いつも自然で、かあちゃんが子供を愛しているのがよくわかったものだった。うらやましいくらいに、子供と自然に接する母親だった。
よくラーメンを作ってくれた。「これから練習なんでしょ?お腹空くから食べてきなさい」と言い、博と二人でテーブルに並んで食べた。よく博は、そのせいで夕食が食べれなくなったらしい。

博と私は、生まれた日が同じだった。年齢も同じなので、他人の子な気がしないと、かあちゃんは本当に私をかわいがってくれた。

博とは高校で離れたのだが、大学でまたばったりと一緒になった。
同じ大学の同じ学部で、同じ学科だった。まったくの偶然だった。

かあちゃんはそれを本当に喜んでくれた。大学生になってから、高校時代の3年間の空白を埋めるかのごとく、また博と私はしょっちゅう、つるむ様になった。

また博の家に行き、かあちゃんに飯を食わせてもらった。
かあちゃんは料理が上手かった。
中学で家を出て寮生活になって以来、結局、高校、大学と寮生活となった私。かあちゃんの料理を食べると、おふくろを思い出した。

今でも時々思い出す。かあちゃんの満面の笑顔と、エプロン姿。近所でも評判の美人で、面倒見の良い人だった。だから、よく博に言われたものだ。「けんいち、かあちゃんには手をだすなよ〜」
なんのこっちゃ!。彼から見ても、そのくらいにかあちゃんは他人の子の私をかわいがってくれた。
病に倒れた事を聞いたときは、300キロ離れた所に住んでいた私。
一度回復してから会いに行った時は、もう完治したからって言ってたのに。
それから2年後、あっちに逝ってしまった。
博から電話で聞かされた。
会いに行ったら、仏壇の中だった。
その日、かあちゃんのいない博の家の台所で、私はラーメンを作って、博とテーブルに座って、並んで食べた。
向かいの左の椅子にいつも座って、私の食べる姿をニコニコしながら眺めていたかあちゃんはもういなかった。
私と博は、どちらともなく、ラーメンを食べながら泣いた。

昨日、アメリカ人になった博と、かあちゃんの話をした。二人で大笑いしながら当時のかあちゃんの思い出を語った。大笑いしながら、二人で、目に一杯涙を浮かべていた。

かあちゃんは、愛情という経費を、博だけじゃなく、私にもたくさん使ってくれた。大人の無償の愛を、親元はなれた私に、まるで親代わりのように。
一回くらいラーメン代を払っておけばよかったなあ。
そしたらこんなに悲しい気持ちにならないで済んだかも。

伸びやかで豊かなアメリカに住みたいという夢を実現した博と、綺麗な嫁さんもらって子沢山に恵まれた私を、かあちゃんが上から見ている気がした。
満面の笑みを浮かべながら。