今年も命日がきた。



15年前の昨日、私の先生は旅立った。

昼間にせっかく奥様から知らせを受けていたのに、会社の上司が向かわせてくれなかった。

その上司は、自分が親の死に目に会えなかったことを引き合いに出して、私も肉親ではない程度の人の死に目に会いに、仕事を切り上げて向かうなどという事は許されないと、そんな論調で言われた事を覚えている。

実に愚かな上司だった。

おかげで先生を看取ることが出来なかった。


でも今思えば、奥さまと子供たちだけにして、家族だけで最後を、そっとしておいてあげられたのだろうかと、時々そのことが気になったりしている。




そして遅ればせながら、夜になって浜松を飛び出し、先生のいる、群馬県の桐生へ向かい、高速道路をスピード違反して必死に運転し、確か、御殿場あたりを走っていたときだった。



携帯電話で私が正一に言った一言。


ひどいことを言った。



【いいか正一!絶対俺が行くまで絶対に米さん殺すんじゃねえぞ!】



15年経った今でも彼に謝ってはないが、殺すんじゃねえってのは酷すぎた。




しかし高速道路上で、同期の今井哲朗からの着信があったとき、私は気づきたくないことを気づいてしまった。


(正一が私に電話できずに、哲朗に俺への連絡を頼んだのだろう。)

(きっと米さんが逝ったんだろうな。)






その頃私は、重度のヘルニアに悩まされ、骨盤はナナメに曲がり、痛みでまっすぐ歩けないような毎日を送っていたのだが、あの日以来、米さんがあっちへ逝った日から、【ピタッ!】と痛みが消えた。

私にしかわからないことだろうが、完璧に米さんが私のヘルニアを、あっちへ持っていってくれたのは間違いない。
あれだけ痛みが酷く、2ヶ月も会社を休職したほどの症状が、あの亡くなってからの数日間ですべて消えたのだから。




子供の頃、タバコと塩素の匂いが混じったような米川先生の服の匂いが、ひげモジャの顔と相まって、凄く怖くて嫌だった。
柔軟体操で無理やり肩をゴリゴリにやられて泣いている時、先生のタバコの臭いがいつもした。
まるでトラウマみたいになっていたけれど、プールの塩素と混じって香る、先生のタバコのあの匂いは、恐怖体験そのものだった。


しかし、離れて暮らすようになってからは、あのハイライトの煙の香りを思い出し、いてもたってもいられなくなって、よく東京から高速飛ばして会いに行ったっけ。



会えば、酒の飲めない米さんと、一緒に腹いっぱい飯食って、夜中3時過ぎてもずっと語り合ったっけ。



女にふられたり、別れたりするたびに、自分の心をどうしていいのかわからなくなって、かきむしられるような痛みを感じていた時も、米さんと会って、【恋愛】というものの、男としての向き合い方をさとしてもらって、強く乗り越えられてきたっけ。



【愛とはただ与える事】
【見返りを求めるのは愛ではない】
【男は黙って背中を見せて去れ】
【泣き顔を見せず背中で語れ】






(すんません先生。全然できていません。)






べつにこの程度ではないけれど、こと恋愛に関して言ってみても先生は、色んな象徴的な言葉を私にくれたっけ。


【人が憎いと思ったときは一言、まいっか!や!】
【人に優しくあろうと思うなら、まずは自分が強くなれ。】
【手のひらにお前のあるものすべて乗せてみろ。】
【強くなければそれがポロポロと、指の間から零れ落ちるんや。】






(自分は全然強くなかったくせに。)






初めて手術室に入るときの、はじめて見る米さんの不安な眼差しを、私は今でも【鮮明】に覚えている。



教え子である私にたった一度だけ見せた、本当は弱虫で意気地なしだった先生の不安と戦う幼児のような眼差しを、私は死ぬまで忘れないだろう。




あの眼差しを知っているのは、奥様と、弟の正則さんと、私だけだ。




手術室に消えていった米さんの、見えなくなった大きな無機質な扉を見つめながら、3人で何も言わず、ただただボロボロと、流れる涙を止められなかったあの日。

泣き疲れても、どうしてもまた、流れてくる涙。

何時間も泣きどおしたあの日のこと。


(どうして米さんが・・・・・)

(どうしてこんな美しい人が・・・・・)




生きることの不条理を怒涛のように思い知らされたあの頃のこと。

まだまだ自分が弱すぎて、師の存在から離れられなかったあの頃。




でも先生。



先生が育てた教え子達は皆、一人残らず全員が、とっても心の豊かな、心の美しい人に成長しています。



私以外は。。。。。



俺、相変わらずですんません。。。。。(笑)