歳をとると、涙腺が弱くなる。
昔では考えられなかったが、最近、ウルウルしやすくなった。
幼稚園とか、小学校低学年の頃までだろうか、私はずいぶん泣き虫だった気がするが、高学年から中学、そして中学時代にスタートした寮生活・・・、泣いた事はほとんどなくなった。
寮生活の苦労で、中学2年生の時に、ベッドの中で布団にもぐってメソメソしたことはあった。感動する映画を観て、べそをかいたこともあったかもしれない。しかし、今の今まで、思いっきり「泣く」というような自己認識のできる経験は、もうほとんどなくなってしまった。そのような泣き方は、特に男性は、幼い頃にしかしないものかもしれない。



けれど、競泳選手時代、周りの選手は自分のレースで、ライバルに負けたり、自分の力が出し切れなかったりした時に、悔し涙を流す選手も結構いた。特に女性に多かった気がする。
そのようなシーンを目の当たりにすると、私はなんとも言えない羨ましさを覚えた。
自分が打ち込んでいる競技に対して、そこまで一生懸命な気持ちになれるということに、心から羨ましいと思った。
私は何度優勝しても、何度勝利しても、嬉しくて涙を流したことなどなかったし、負ける事があっても、悔し涙など、出そうになることすらなかったからだ。
私は、悔し泣きという経験が、泣くという経験の中でもっとも少ない経験だ。幼い頃、父親や、母親に叱られて、2階で悔し涙を流したことはうっすらと覚えているが、競泳選手として生きるようになり、引退して社会人になり、結婚して家族が出来たこれまでの約25年間くらいの時間、悔し涙を流した経験は少ない。
恩師が逝った時の涙は、悔し涙と、悲しい涙が入り混じった涙だったが、それでもずっと見てきたから、他の教え子達より、どこか私は、心の準備が出来ていた気がする。




でもただ一度だけ、嬉し涙を流した時がある。
しかも、競泳選手として、一度だけ。
小学校3年生から大学1年で引退するまでの、11年間の現役時代で、たった一度しかない嬉しい涙を、思いっきり流した経験が、日本大学1年生の時のインカレである。



そもそも高校卒業と同時に、青山学院大学に進学する予定だった私は、父親の反対で、直前になって日本大学に変更するというハプニングで進学した。その理由は今回は割愛する。
進学した当初は、私は日本大学水泳部の合宿所には入らず、スイミングクラブの強化チームの寮にいた。
しかし、日中戦(日本大学中央大学 対抗戦)の前夜に、日本大学水泳部の合宿所に宿泊した時から、運命が急展開した。
私はその日、日本大学水泳部の組織としての強さと、インカレに向かうチームの結集力に大いに感銘を受け、また、社会の縮図を思わせる、100人以上の生徒達が一同に生活する凄まじい環境に圧倒され、私自身、ここで揉まれるべきだと感じたのだった。
恩師の米さんと話し合い、この時一度、私は米さんの元を離れた。
そして、日本大学水泳部の合宿所に、カバンひとつで入所した。



日本大学水泳部は、インカレ(日本学生選手権)で、総合優勝し、「天皇杯」を獲得する為に存在するといっても過言ではないチームだ。
日大にはインカレの常勝が義務付けられている。
合宿所に入って、尊敬する先輩達に、徹底的にそれを植え付けられた。
また、私はある程度、強い選手として、先輩方から大切に扱われていたにもかかわらず、入部した時はすでに肩を壊し、練習も出来ない状態だった為、自分の種目である、1500mのインカレへの出場は不可能だった。
それでも、何か、チームのインカレ優勝の為に、力になれないかと、そのことばかりが1年の私の思いだった。



3日間に渡るインカレ。
日本大学早稲田大学の接戦状態が続いていた。一人が勝てば一人が負け、両チームの総合点は最後の、男子800mリレーにまでもつれ込んだ。
日本大学早稲田大学の総合点は同点。
すなわち、この最後の男子800mリレーに勝利したチームが、インカレの総合優勝となり、天皇杯を獲得するのだ。
それぞれの出場選手4名の力量は、早稲田大学のほうが圧倒的に有利であった為、我が日本大学の出場選手は、チームの総合優勝がかかったこのレースに、命を懸けるほどの覚悟と、極度の緊張だった。
肩を壊し、まったく練習もしていない私を、監督が選び、この800mリレーの決勝レースの第一泳者に抜擢した。
はっきり言って完全に無謀だった。
脱臼癖のついた私の右肩は、泳いでいる時に亜脱臼する可能性があり、そもそもまったく半年以上練習をしてこなかったのだから、使い物になるはずがないではないか。
にもかかわらず、監督が私を選んだのは、過去の私の勝負強さだったと、後に教えてくれた。
ウオーミングアップもまったくしなかった。変に泳いで、肩が外れたら、それこそレースに出れなくなってしまい、チームに迷惑をかける。
何しろ、このリレーで勝ったチームが天皇杯を獲得できるのだ。
自分の泳ぎに、チーム100人の勝利が懸かっているのだから。
私を含む、メンバー4名は、極度のプレッシャーに押しつぶされそうになりながらレースを待つ。待つ間、色んな選手や先輩や、当時の恋人まで、声をかけに来てくれた。でも、もう何も耳に入らなかった。集中力は研ぎ澄まされ、もう、何も耳に入らない。すべてが雑音にしか聞こえない。頭の中で、最高のストロークを実現し、思いどうりに泳ぎきるイメージだけを、何度も何度も繰り返す。顔は引きつり、目は攣り上がり、全人類が敵だと思えるような闘争心が私を支配していた。
あの時は、日本大学の4名だけでなく早稲田大学のメンバー4名も、きっとまったく同じテンションだったと思う。



800mリレーのレースがスタートした。
第一泳者の私は、どんな事をしてもトップで入りたかった。
1人200mづつ、4名のリレー。
私は、100mを折り返し、もうすぐ150mのターンが近づいている時だった。心配していた通り、右肩に、「ビ〜〜〜ン!」という衝撃的な痛みが走った。肩が外れかかった時の痛みだ。完全に脱臼するわけではないのだが、抜けたような感じになり、力が入らなくなる。普通は間違いなく、その場で動けなくなる。私もいつもはそうだった。
しかし、この日はそういうわけにはいかない。肩が外れようが、心臓が止まろうが、私の後ろに100名の日大生がいる。天皇杯がある。まさに、死んでも使命を果たさなければならなかった。
150mのターンの後は、痛みと、苦しさと、必死さで、何も覚えていない。
私はトップで第2泳者に引き継いだ。
山口さん、野口さん、田川さんと、早稲田大学の追撃をかわしきり、我が日本大学はこの800mリレーを制した。



この時私は、亜脱臼していた肩の痛みに耐えつつ、生まれて初めて、競泳生活の中で「嬉し涙」を流した。声を出して泣くほどの、物凄い涙だった。そして、日本大学水泳部の部員100名は、全員、嬉し涙を流していた。泣き崩れ、天に向かって拳を突き上げ、「やった!やった!」と、涙で声にならない声で泣き叫んだ。




水泳は個人競技だが、チームとしての側面もある。自分がいくら個人で勝利しようとも、一度も流したことのない嬉しい涙だが、チームで戦う時、個人競技個人競技ではなくなってしまう。
もうきっと流すことのない涙。生涯たった一度だけ、競泳をやっていてよかった・・・・・と思った瞬間だ。
あの時のメンバー4名と、日本大学水泳部の100名の先輩や仲間たち、そして石井監督、さらに、それまで水泳に携わらせてきてくれた恩師や両親に、感謝の気持ちでいっぱいだ。

最高の4人。

生涯一度だけだろう。嬉しくてあれほど泣いたのは。