催眠

私の仕事は日本の社会保障制度を支えている事業。
高齢者、後期高齢者が増加する日本の社会で、高齢者の介護問題は日に日にその深刻さを増している。
私たちの事業は、要介護認定を受けたご利用者に対して、福祉用具をレンタルする為の卸し会社である。
町の介護ショップへ、福祉用具をお貸しし、そしてさらにショップがご利用者へお貸しするのだ。

私が責任者を務める関西エリアは、近畿2府4県と、岡山・広島・山口・高松・松山である。

それぞれそこで保有する福祉用具の資産額は、合わせて30億にも登る。

特に大阪は、関西でも大きなマーケットであり、高齢者、後期高齢者人数や、要支援認定者、要介護認定者数も、日本で2番目に多い都市だ。

この福祉用具レンタルは、社会保障制度の枠組みの中で、国がご利用者のレンタル費用を9割社会保障費で負担するというものである。
だから、私たちの仕事は、民間企業のビジネスとはいえ、間接的に税金のとりつけ業務的な要素がある。

つまり、民間ビジネスでありながら、高い品質やモラルが要求され、それを担保する事が社会貢献につながるのだ。

企業活動である限り、金銭的利益は重要であり、当然必要でもある。利益がなければ、給料も払えない。電気代も水道代も払えない。福祉用具の修理費や、メンテナンス生産整備の人件費も払えないし、洗剤や消毒剤の支払いもできない。
それができなければ会社は倒産する。
会社が倒産すれば福祉用具レンタルの卸会社がなくなるということなので、ご利用者に届けられなくなる。
倒産する事は、社会貢献という概念から見れば悪である。
企業は健全で高品質なサービスを提供し、健全な利益を確保する事が、基本的な経済活動要素なのだから。

しかし、このような社会保障制度を底辺で支える事業は、本当に薄利であり、むしろ拠点によっては黒字化自体が非常に困難なほど、儲からない事業でもある。
率直に、「儲かりまっか?」と聞かれたら、「儲かりまへんわ」と答えるだろう。
高給取りも存在しない。
以前、倒産したある介護事業の会社は、社員が恐ろしいほどの薄給で、社長が毎晩芸能人と六本木で豪遊していたという会社があったが、激しく倒産し、完全に路頭に迷った。
我社はその会社の末端の、現場に貢献していた利益の薄い部門だけを引き継ぎ、我社のノウハウを駆使して、運営を引き継いできた。

私の部下達も、この事業がいかに社会にとって重要か、高齢者の生活にとって重要であるか、それを十分に理解して営業活動やメンテナンス生産活動に従事している。
若い者達も安月給ではあるが、より業績を上げるための努力と、より高い営業品質を担保する為の知識や所作への努力も、様々な研修や勉強会を通して得ている。
実に真摯な生き方であると、私は部下を誇りに思っている。
そして、介護事業という社会保障事業に、誇りを持っている。



一方社会には、金儲けの上手い人や、より多くの消費者によって支えられている一部の金銭的成功者が、高級外車を何台も保有し、高級なマンションに住み、気ままま裕福生活を送っている。
この時代の勝利者とも言えるこういった人たちも、ほんの少しだけは募金したりする。そして、日本のことはさておいて、他国の支援に金を出し、目立つ支援活動を行う事で、自身や団体の平和への貢献度をアピールする。
個人消費者の消費負担から得た利益を一部の人間が吸い上げ、高級外車を見せ付けて、「ほら!いいだろう!お前もほしいだろう!」とさらに助長する。
そしてさらに個人消費が一部の個人への利益を生み出す。
それが高級外車に変っていく。

私は身近でそのような光景を見て、自分が望んでいる生き方はやっぱり違うなあと改めて思う。
このようなお金が、もっと違う形で社会に廻っていたら・・・と思うと、異次元の世界のように思えてくる。
気付かない人は、気付かないままなのだ。
何台も何台も外車を買い回し、自身の欲だけに邁進追及する人生。
その為に固有のビジネスを発展させようとし、また新たにより多くの個人消費を助長させていく。セミナー漬けにして洗脳から外れないようにする事が仕事となる。



会社という存在を経営し、ビジネスで成功している経営者の方は、本当に尊敬する。社員を大勢雇用し、給料を保証し、それはすなわち、社員の家族の生活も守っているのだから。
会社という組織は、そこに関わる様々な人々の生活を支えている。そしてそこに流れる商流は、さらに関わる人々の経済活動を、一部から支えている。つまり、会社という存在は、社会貢献度が非常に高いのだ。
会社経営者の成功者が乗る高級車なら、イタリアの会社の為にもドイツの会社の為にも、良い事かもしれない。




しかし、会社という組織を成していない個人が主体の金儲けには、社会貢献がない。
あくまでも個人の欲を満たす手段として、「お金が大好きだって素直に言おう!」みたいなセミナーで、洗脳を解かない。
あくまでも個人消費の人数をより多くする事で、一部の個人の利益幅を、通常の商道徳を逸脱する比率で利益担保する。
ただの消費者と大金持ちに別れる集団である。
アフリカ難民に募金をしても、日本の現実には支援しない。目立たないからだ。

以前、そのような集団に、私はそんなにお金を求めていないと言ったら、「それはウソだ」と嘘つき呼ばわりされた。

お金はあれば嬉しい。
しかし、お金にはある法則があるのだ。
本来の人間のあり方を基軸とした時、その量にあまりある、不必要な金銭があんまりあると、夫婦や家族、あるいは大切な人から、『余って得ているお金の分』幸せが逃げていくと、本能的に私は感じている。
だからたぶん私が大金持ちになることはないと思うが、たとえ宝くじが当たっても、私はきっと高級外車には乗らない。
お金があればお金に人が集まる。
きっと女も集まってくるだろう。
若くてピチピチした女も寄ってくる。
間違いを起こさず辛抱できるか。
一度でも間違いを起こせば、妻は去るだろう。
妻のいない者はそれを得る事が出来なくなり、得てもすぐに関係は崩壊するだろう。互いの関係を支える基軸が、「金」や「儲け」である限り。
妻を失えば、家族を失う事になる。
だから使うところを間違ってはいけない。
イタリアの車の会社だって利益が必要かもしれないけど、私から見たら、今の日本はそんな事してる場合じゃない。
原発、復興、社会保障・・・・・。
もっと利口にお金を廻したいものだ。



どんなに奇麗事を並べても、私の心は結局動かない。
私は催眠術には罹らない。
私の心は正義に奪われる。
私の心は偽りに近寄らない。