出場への障害



教育とはなんだろう。

大きく言えば、

人間を形成すること。

人格を育てること。

人を創ること。

きっとそんなことなのではないかと思う。

その具体的な手法として学問があり、スポーツや部活動があり、または社会人であっても社内研修があり、上司がいて、企業理念があるのではないだろうか。



私は亡くなった師に多くを学んだ。

そして亡くなった今でも師の教えが私を鼓舞する。

そして常に師の倫理が私の人生を支えている。







先日息子のことで、思ってもいないことが起きた。。

そしてその問題を見つめ、私は様々な対応を試みたが、担当所管の世間の大人は、ことごとく無責任な大人ばかりだった。



どいつここいつも馬鹿ばっかりとSNSで発言すると、色んな人が意見を述べてくれたが、私にはどうしても解せない事や、間違えた倫理に汚染されているのではないかと感じる事が多かった。






息子は高校進学の際に、水泳部のない公立高校を選んだ。

理由は通学距離の問題もあったが、せっかく勉強した成果を、水泳部があるかないか・・・という理由だけで選校したくなかったこともあるだろう。

さらにいえば、私が息子にこう言ったからだ。

【高校に水泳部がないのなら自分で作ればいいのだ】

と。




息子は入学後、あらゆる教師の尽力を得て、見事に水泳部のなかった高校に水泳部を作り、初代主将となって、たった一人の部活を作った。

それが何とか今期の夏のシーズンに間に合い、県大会に出場する事が出来た。

結果は、決勝には進出したものの、順位で9位となり、近畿大会に出場する事は出来なかった。

その時の記事がこれである。

http://d.hatena.ne.jp/sumikenn/20140623/p1

努力して高校時代をすごし、
多くの経験を積み重ね、
より社会に貢献できる人格者に育て上げる事が私たち親の使命であるからこそ、息子に水泳部を創設するように指導したことも間違っていなかったと思えるし、それに見事に答えた息子と、それに協力してくれた、学校を含む、教育に携わる人々にも深い感謝であった。



しかし仰天する出来事が起きる。

新人戦に引率する教師がいないので、息子を大会に出場させられないと、顧問の教師から妻に電話が入ったというではないか。

一体どういうことなのだ。

聞けば、運転免許の更新日だったり、研修だったり、教師の学校行事で、生徒を水泳の試合に出せられないという。

私は驚愕した。

教師が自身の都合で引率できないから大会への出場を諦めろというのだ。

しかし教師にも已むに已まれぬ事情もあるのかもしれないと思い、新人戦のような高校の大会を所管する高校体育連盟や、県の相談窓口などに、親の引率代行ができないか、またあるいは、教師からの委任状で親が引率代行できないか、また、それ以外にどのような条件を満たしていれば、子供を大会に出場させられるのかを、聞くことにした。

どこの誰に聞いても、

【私にはなんとも・・・】

とか、

【私には判断できません】

とかしか言わない。

誰に聞けばいいのか聞いても、わからないという。



相談窓口のくせに。




要するに、【馬鹿ばっかり】なのだ。

自分たちで判断できない事は、判断できませんといって済ませるんじゃなくて、誰に判断を仰げばいいのか、どうしたらこの問題を解決できるのか、それを考えようともしない。

幼い子供のワガママと同じロジックである。

【わかりません・・・】

【できません・・・】



そもそも学校の教師にも組織があるだろうが、校長や教頭も、この問題を知ってか知らずか、具体的に代わりの教師を選定するとか、生徒の大会出場をちゃんと優先して、教師の責任を果たそうとする倫理がまったく感じられない。



この件についてある教師はこんな風に言う。

【学校の先生は夏休み忙しくて大変だから仕方がないんじゃないか】と。

【休みもろくにとれないくらいなんだからかわいそうじゃないか】と。

【給料に見合っていない仕事だから仕方がない】と。

【そもそも水泳部のある学校に行かなかったことが悪いんじゃないか】と。

【水泳部のなかった高校が私たち親子の意向を汲み、配慮をしてくれて水泳部を作ってくれただけでもまだましだろう】と。

【水泳部作ってくれたほど配慮してくれたんだから試合に出れないくらいで文句言うな】と。

【私学と公立は違うからしょうがないんじゃないか】と。

【生徒の試合よりも教員の研修の方が大切だ】と。

【顧問以外の教員に引率を頼むのは無理だ】と。

【民間企業と公務員とは違う】と。

【大人のルールで子供が困ることがあることを子供は学んだ方がいい】と。

【こういうことを何とかしようと親が行動すると、モンスターペアレンツだ】と。

【教師の仕事に理念を語るのはもはや幻想だ】と。

【公務員に税金の話をするのはナンセンスだ】と。

【興味のない部活やスポーツに引率なんか行かない】と。

【部活はボランティアで無報酬だから何かを要求されるなら辞めるだけだ】と。







私の意見ですが、上に書かれている発言は、ほとんどが【間違えた考え方】です。

大人じゃないぜそんな言い訳。

きっと大切な事を大人の誰かから教えてもらわなかったのだろう。



学校の先生というのは、生徒が夏休みがあり、自分たち教師が生徒と同じように夏休みが取れないことを悔やんでいるのでしょうか。

7月であろうと8月であろうと、社会人は普通に仕事をしています。

有給が少ないとか、休みを返上して仕事とか、そんなことは民間企業であれば当たり前にあります。

それは、社会のニーズが、夏だからといって、あるいは日曜日だからといってストップしてくれないからです。

仕事をして報酬対価を得て、プロとして働くのであれば、ニーズに応え、最高品質を目指して努力し、より顧客に満足を与えられる仕事をしなければ、企業は淘汰されます。

公務員とてロジックは同じです。

民間企業の顧客が国民であり、世界の人々であり、社会のニーズであるのと同じように、公務員にも顧客がいます。

それは国民です。

公務員の顧客は国民です。

それは、国民が、日本と日本の政治的国力の土壌のうえで経済活動を行い、利益を得て、その利益を【税】として再分配し、国民のためにサービスを提供する仕組みが公務員制度だからであり、またあるいは、社会保障制度なのです。

いわば、教師の顧客は地域社会であり、地域社会ということは、必然的に地域に暮らす、住民であり、生徒である子供たちです。
特に教師という職につく者は、尊敬に値する人物、人格であることを、社会から求められます。
決して完璧であれと言うことではなく、うまくいえないけれど、なんだかとっても尊敬できる人・・・とでも言いましょうか、そういった一面が、必ず生徒や地域社会から求められます。
それは教師が、教育に携わる最前線にいるからです。
教育は人を形成する上でその占有率が最も高い。
親が子から尊敬されるべく努力して日々親として葛藤しているのと同じように、教師もあらゆる知識と経験と真摯な学びによって自身の人格を磨くことが大切です。

すなわち、社会のニーズに最大化することは、大人、経済人、公務員の義務であり、重要な社会への貢献要素です。



民間であっても同じ事です。



私立の学校は民間といっていいのでしょうが、これも民間のニーズに答えられるクオリティをもっていなければ、必ず淘汰されます。

私立の教師は民間であるがゆえに、公立の教師よりも優遇されているように見えることもあるかもしれませんが、それは民間だからです。民間は経営者の要求に応えることで評価されます。

経営者の要求する社員とは、顧客ニーズに最大化できる社員である事と、経営を支える上で重要な利益を担保することができる社員です。

それだけではありませんが、私立と公立では雇用の体系に違いはあるでしょう。

一方で、顧客のニーズが私立の経営理念にそぐわず、要求を満たす必要がないと、私立側が判断すれば、顧客はそこの私立には進学しません。それは民間の経営者の方針と、生徒の目指す方針が違えば当然でしょう。

しかし出来るだけ広く、そして深く、学校の経営資源を追求する事は、より多くの進学率を勝ち取り、より優秀な生徒が進学を希望する学校になるのですから、当然、そのような方向性の理念に結びつくでしょう。

これは公立でも同じです。

税金で運営されている組織は、まずその顧客が国民である事を忘れてはいけません。

認めたくなくともそれが事実です。

いやむしろ、そう思えない人は公務員ではなく民間企業に進むことをお勧めします。






学校の先生が、休みもろくにとれないと嘆いていますが、民間でも別に同じです。

理想的に有給や年休を好きに取得できる企業など、ほとんど存在しないでしょう。

理想的に有給を取得できるような企業があるならば、そういう希望の方は、さっさと転職したらいいのではないでしょうか。
子供の教育の機会の話をしている真っ只中で、大人のプロが、有給が取れないから勘弁したれ。などという論法は、完全にロジックが破綻しています。

民間であっても、勤務体系を調整し、他の社員とシフトの調整をして、仕事に穴を開けて、経済社会への貢献活動に、品質に迷惑をかけるような、勝手な休みはだれも取れません。

社会人であれば公務員であろうと、民間であろうと、だれでも同じ事です。

いやむしろ、民間よりも公務員の方が、顧客ニーズには到底答えられていないのが現実です。

その原因は、税によって機能している組織だからです。
顧客ニーズに答えずとも、決まって一定の昇級や昇給が行なわれ、品質の低い社員であっても、そうそう淘汰される事はありません。
教師は特にそうでしょう。

仕事には責任があります。

教師の年間休日日数の数や、夏の休みのと取得について、私は間違えても【かわいそうだなあ】なんて思いません。

もし勤務体系や労働形態に問題があるのなら、それは世間に対して嘆くより、自分たちでしっかりと組織のあり方やルールについて改善する努力を行なうべきです。

税を納めている世間様に対して嘆くようなことは、恥であるという概念を失っている。

会社によっては休暇を金で買い取る会社もあると思いますが、金より休暇という民間人や公務員も当然いるでしょう。

しかしむやみやたらにそれを私の例に当てはめ、教師が休暇を取れないのなら、生徒だって試合に出れないくらいしょうがないんじゃないですか?なんて意見は間違えています。
論点が完全に摩り替わり、少なくともそういった考えでは、仮に民間企業に居たら、部下や社員を鼓舞し、品質を高めることなど到底出来ない事でしょう。
出来ないということは、部下を持てないということにもなります。
また、部下からの尊敬などありえないでしょう。
すなわち、出世や昇格、昇給もままならなくなります。



組織の問題点は、組織内で解決する努力をする必要があります。

外の誰かに愚痴をこぼしても一向に解決しません。

ましてや外部の人間をずらした論点に撒きこんで、改善の芽を摘もうなだという行為や言動は、あまりにも大人として情けない気がします。

公務員の組織の中の問題点は、公務員自身が改善改革を行うこと。それ以外に術はありません。

それと学校の生徒の引率の放棄とはまったくロジックが違う。

また、教師に多くを求めるのは給料が安いので現実的じゃないというニュアンスや、
給料が安くていい人材が集まらないなど、そういう意見もありました。

給料の額で仕事を語るのは、そもそも論で私には理解できません。

仕事の対価を給料ではかるだけでは、仕事へのプロ意識は育たないとは思います。

仕事の報酬は、【次の仕事】ではないかとも思います。

そもそも水泳部のある学校に行くべきなんじゃないかという意見もありました。

しかしこれは、発言者の大人が自分の足元を見ていない恥ずかしい原理の言葉です。

休みがない。忙しい。公立だから。思うようにはいかない。などという理由が不満なのであれば、不満のない職を探せばいい。
このような論理だけで仕事を選ぶことは不可能でしょう。

水泳部のある高校と、水泳部のない高校。

休みのある学校と、休みのとれない学校。

教師と生徒がそれぞれ抱える問題ですが、大人は時に、自分の立ち位置から、逆上せ上がった発言をします。

生徒は水泳部のある高校に行くべきだったと言うのなら、教師も休みがいっぱいの仕事を選べばよかった。。。というロジックになります。




昔若い頃、私もよくそういう間違いをした気がします。反省の日々です。





水泳部のなかった高校が私たち親子の意向を汲み、配慮をしてくれて水泳部を作ってくれただけでもまだましだろうという意見もありました。

私は水泳部を作ってくれた学校に感謝しています。

私たちの熱意、思いを汲んでくれました。

おかげで県大会に出場できました。

学校の先生方は、このように私たち親や生徒の気持ちを理解し、水泳部を創設する【決断】をしたのです。

ありがとうごいざいます。



しかし決めた決断についてですが、
部員が一人だけだからとか、
顧問がまだ付いて間もないからだとか、
研修だとか、
休暇だとか、

そういった理由があるからといって、
学校として一度決めた決断を、【都合のいい所】だけかっこつけて理解を示したような体裁をして、実際は教師の都合で、試合出場すらしたり、しなかったりすることがある。。。ということで、本当にいいのでしょうか。

民間企業と公務員は違いがあって、公務員は、一度決めたことでも、中途半端にしてもいいという職業でしょうか。
それは違うでしょう。
つまり、仕事には義務と責任があるのです。
国民に、勤労と納税と教育の3つの義務があるように、働くという義務には果たすべき責任があります。

公立高校の教師であればなおさら、生徒を顧客と思えとまでは社会通念上、言いませんが、生徒の教育活動を学校が担保したい上、責任を果たすのは当然の事です。

親から高校体育の活動の場を、【利益の再分配という税の形】で借り受け、そのステージを学校管轄で監理監督し、均等に教育のチャンスをあたえる努力を怠らない。それが最低限の教師に要求される顧客ニーズです。





大人のルールで子供が困ることがあることを子供は学んだ方がいいという声もありました。

私はこの意見が一番現実直視の素敵なアドバイスに聴こえました。
社会の現実は、子供に自由を語ったり、自由を与えようとする、間違えた理論によって取り巻かれている気がします。
子供時代に子供が感じなければいけない要素は【自由】よりもむしろ【不自由】であると思います。
その上でこの意見には同調します。

子供は自由を知るよりも、先に知るべきは不自由であると思います。
不自由だからこそ、勝ち取るべき自由の価値が発見できる。そして自由を勝ち取る力を身につけることも出来るのです。

世の中ではこれから、こういうことが大津波のように次から次へと襲い掛かってきます。
今私が感じている役所の無能者も、このような現実に取り巻かれ、問題を改善しようとも思わない非人格者と成り果てていました。
教師の職に付く人には、せめてこのような残念な人格にはならないで欲しいです。



こういうことを何とかしようと親が行動すると、モンスターペアレンツだという意見もありました。
いつも私は、学校がらみでおかしなことが起きると、行動しようかどうか迷います。
学校へ出向き、教師に向かって意見をする。このことに躊躇します。
なぜなら、私は同じ子供の教育者の立場である一方で、【親】という、【公】とは違って【私】の一面を持っているからです。
公の立場としてならば、すぐに学校に意見し、問題を改善すべく教師に協力します。
時には反対されるでしょうし、いつも正義ばかりが通るとは限りません。
仕方なく、最大の配慮の上で、現実を取っているようなケースも、学校には多く存在します。

しかし私は同時に親であり、私的に生徒の親の立場で、感性が動いているという事も十分にありえる。
だから悩む。
社会、地域全体で俯瞰して見たとき、自分の倫理がベストに近い、より、ベターな判断なのかどうか、悩む。
そして、同じようなケースが今後も、他の生徒で十分にありえると、そう判断できた時、教師にじっくりと話をしに行きます。
しかし、学校側はそんな時、実は凄く私を恐れているようです。

先般、末っ子の問題で、担任と話をしようと思い小学校に行ったら、なんと5人の教師が私を引きつった笑顔で待ち構えていました。
校長は親切に名刺交換をしてくれましたが、手がガタガタ震えていました。
私はその校長のビビリ具合を見て、本当に申し訳ない気持ちになってしまい、まず最初に、先生方、安心してください。
私はモンスターのようには振舞ったり、そのような要求も発言をもしませんからと言いました。

しかし、いくら教師とて、伝えなければわからないこともある。
だから丁寧に説明しました。
地域としてどう感じるか、親としてどう感じるか、そのことを説明し、一方では先生方の立場もあるでしょうから、この辺で妥協案としていかがでしょうか?というような展開です。

校長先生は泣いて喜ぶというばかりに、私に感謝の言葉を言ってくれましたが、最後にこんな言葉を言われました。

【いや〜よかった!よかった!。お父さんは学校の味方だったことがわかって〜〜】

(そういう意味じゃないんだけどなあ)

そんなこと事を感じましたが、きっとホンモノの、すっごいモンスターペアレンツもいるでしょうから、そのような体験を重ねているから、ほっとしたのでしょう。




教師の仕事に理念を語るのはもはや幻想だという意見もありました。

このような考え方は本当に残念です。

きっと民間企業に居たら、年功序列で出世する事はあっても、ほぼ能力では出世することはありえない人でしょう。
仕事には常に課題が現れます。
時代も社会も人も常に変化(進化?)し続けるからです。
様々な状況やニーズや現実に、高品質に対応する事が【働く】うえでの理想です。
常に理想は実現しませんが、一方では常に理想がなんであるか、それを画けない人物や企業は淘汰されます。
なぜ淘汰されるかというと、社会への貢献度が低いからです。
しかし貢献度が低くとも、別に悪者でも弱者でもありません。

多くの人は変る事を恐れます。

だから社会は実は、ほとんどの事が、なかなか変化に対応出来ません。

そう。だからその現実に都合が悪い人が、それぞれの立場で存在します。

しかしここでまた理想とは何か。。。を論じることが必要になります。

そして理想に限りなく近い、人間の英知の結集である素晴らしい【妥協】案を生み出すわけです。


教師の仕事にも理想と理念を持ってください。
どのような仕事にもそれは、いつか必要となり、どこかで誰かがそれを代行しているはずです。
理念が無くとも教師の仕事は勤まると思っている人が居るならば、その人はきっと、【知らない】のです。どこかで誰かが、あなたの代わりに、または、あなたに頼らず理念に向き合い、理想を追いかけている。
そういう教師に、その他大勢の教師が救われているのでしょう。



公務員に税金の話をするのはナンセンスだといういけんもありましたが、公務員相手だけでなく、税金が有効に最大化されるように意見する事の芽を摘むのは、議論に対する冒涜ともなります。
税を最大化することは、政治や公務には必須であり、これこそ最大の責任である事を忘れないでいただきたい。



また、【興味のない部活やスポーツに引率なんか行かない】【部活はボランティアで無報酬だから何かを要求されるなら辞めるだけだ】という意見を後輩の教師が書いてくれました。

こいつ悪いやつじゃないんだけど、言い方が悪い。んで、昔からまあまあ頑固。(笑)

まいいや。この件は、読んだ人が判断してください。(爆)




しかし。。。。。。

私に意見してくれた人は、一人残らずみんな、少なくとも私よりもずっと人格者だった人です。
そして現役時代は本当に一生懸命で立派な成績を残された、優秀な選手でした。

それでもこうして、時代を経て、大人になり、それぞれの立場や環境が積み重なり、決して理想ばかりを語れる訳ではなくなります。

わかっていても、現実を直視すべきだと、そう発言する機会が増えてしまう。

それが脇道に反れた議論であっても、その本線の脇に、少なくとも存在している現実を、むしろそこを重要視しなければならない事も、人生にはある。

誰がどんな事を言ってくれるかな。と、SNSで私はインフルエンスのような物をを投げた。

【どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ】と。

体制や組織の圧力に、簡単に屈して欲しくない、そして、変えるべき問題があれば、果敢に立ち向かって欲しい気持ちで。

私自身にも私がそう願っていたからだ。

このいつまでたっても問題児のような私に、どんなお叱りを与えてくれるだろう。そんな事をどこかで考えていた。

勇気ある多くの仲間が、私に様々な意見をしてくれたが、正否という一面だけで、そもそも私は多くのご意見を伺うつもりではなかった。

しかし、間違っているという意見を、私自身も言った方がいい気がする。






そしてこの件。

どうなったかというと。。。。。




私は県の高校体育連盟や、市役所、県庁に連絡し、引率を親が代行する形や、教師からの委任状をとるなどして、引率者がいない生徒が、試合に出場する方法を検討してくれませんかという主旨の話を、至る所の部署の方に相談した。
しかしどこの部署の担当者も、自分ではどうしようもないと言う。
そこで、どの部署の誰が決定権、もしくは、このようなケースに対応する為の結論を出してくれるか、色々聞いてみたが、色んなところをたらいまわしにされ、結論が出ない。

最後、県の教育委員会体育振興課という部署に行き着いた。

そこで私は神に出会う。

この教育委員会体育振興課の係長が、じっくりと相談に乗ってくれた。

私は、学校の顧問なり担当の教師にも、何らかの事情があって引率できないことはありえるとした上で、そういったときの代替措置を、なんらかの一定条件をクリアする事で、取る事が出来ないだろうかという相談をした。

学校の研修なのか、自動車免許の更新なのか、教師免許の更新なのか、夏休みなのか。

そのことを掘り起こしてどうこう言うつもりはない。

先生には先生の已むに已まれぬ事情があるかもしれない。

しかし、あれだけの教師の数が学校にいて、代替教師の一人も出せないということが、本当に教育現場として正しい結論でしょうかと、そして、どうしても教師の引率が不可能であった場合、むしろ、教師の方から、なんらかの代替措置を取るための行動を起さなければならないのではないか、それが仕事の責任であり、教師の責務ではないか、たとえ部活動がボランティアであっても、生徒の教育の機会が、教師の日常の都合によって均等に与えられないことが、あっても良いのでしょうかと、こんな話をした。


この係長は、真摯に私の考えに耳を傾け、【まったくの同感です】と言ってくれた。

そして確かに不備があるのは事実ですが、今日、その問題を突然解決できるような仕組みや組織的なレスポンスが、県にはないので、自分が学校に電話してみてもいいでしょうかと言ってくれた。

しかし、そんな事をすれば、生徒である息子の学校での立場、そして、せっかく一人だけの水泳部を作ってくれた学校教師たちにも、慇懃無礼なのではないかと、私は躊躇したのだが、この係長は、私からはあくまでも、教師引率の代替措置がないかという打診だが、どうしても手を打つには間に合わないので、もう一度、かわりの教師が居ないかどうか、それだけでも確認、そしてお願いをさせてほしいと、そこまで言ってくれた。

しかし、私はこの方に心から感謝すると同時に、丁重にこの打診をお断りし、真摯な対応に深くお礼を述べ電話を切った。



そして考え、一つの結論に行き着く。

息子本人が本当に何らかの壁を突き破ってまで、今年のシーズンの最後のレース、チャンスを得たいを思うのならば、やはり自分でもう一度、学校へ出向いて、先生にお願いしてくるべきであると、そう行き着いた。

息子へ電話し、【どうしても試合に出たいのか?】と聞く。

【どうしても出たい】と、息子。

【それならばどうして先生にもう一度お願いしてみないのか】と聞く。

【わがまま言い過ぎてはいけないと思って。】と息子。

(ほほぉ〜。なるほど。それもまた間違いでもないな。)

しかし、【自分のチャンスをものにするのは、他の誰でもないぞ、おまえ自身しかいないじゃないか。】と返す。

すると、【わかった。行って来る。】


といって、速攻、数秒で自転車に乗って学校へ向かったようだった。


10分ほどすると息子からメールがあり、先生がもう一度他の先生を当たってみると、そう言ってくれたとの事。

その際、息子が第一声、
『先生。すみません。ご迷惑なのはわかっているんですが、なんとかもう一度、試合に出場できる方法を探ってみてくれませんか。』
と聞くと、先生は少し目に涙を浮かべ、
『わかった。謝らないでくれ。先生が悪かった。何とかするから、また連絡するから。』
と言ってくれたと。





物語の結末は試合当日までわからないが、少なくとも生徒本人が自分の意思を、しっかりと自分の言葉で伝えた事によって、問題の本質に確りと行き着くことが出来た。

公務員の有給の話も、水泳部の在る無しの話も、走っているストーリーの本筋には入れない。

アクセルを踏む後ろに排出される排気ガスでしかなかった。




私は【師】に、【無から有を生み出せ】と教わってきた。

水泳部になどまったく関心のない高校に、一年で50mプールを作ってもらうにまで、田川や央という同じ【師】を持つ仲間と、大人の世界に勝負を挑み、10回中、2回くらいは勝つこともあった。

ほとんどは圧倒的な大人の力と知識知恵に寄り倒され、悔し泣きした日もあったが、反省した日もあった。

大人になり、【師】を失い、やっと昔の仲間と同じように、遅れて社会に出て行った私が、やっとギリギリ一人前の仕事ができるようになったかな。。。という所に行き着いたとき、【師】の存在が私にとって、物凄く大きく影響していて、それが水泳だけではなく、どんな世界であっても同じことなのだと、深く知る事になる。

世間と自分と勝負する事で、そして心にいつも【師】を活かし続けていることで、せめて私が生きていることで少しでも、誰かや世間のために、ほんの少しでもなれたらと、心からそう思う。

家庭や学校や仕事や、そして私の周りを取り巻いている世間様とに。