中学時代

私は中学2年生の時、静岡県富士市の、実家である親元を離れ、東京都足立区花畑にある民間のスイミングクラブの強化チームに入った。
寮生活である。
先駆けて前出の「米さん」こと、米川先生が1年前にこのチームのコーチとして赴任しており、1年後に米川先生に呼ばれたのだった。
両親にはめっぽう反対されたが、ひげもじゃ先生の不思議な魅力に取り付かれていた私は、その反対を押し切り、中学生でありながら寮生活に踏み切ったのだった。父は出発前日の夜、台所で新聞で顔を隠して泣いていた。
母は出発当日、荷造りをしながら泣いていた。

その時一緒に同じ富士市から入寮したのが、前出の「不破央」さんだった。
2人ともまだ子供だった。それまでは仲の良かった彼とは、この地獄のような寮生活で最悪に険悪な関係に変わってしまった。ひとつ年上でありながら、この寮生活で追い込まれ、私は彼に先輩らしく接する事が出来なくなっていた。
まだまだ子供だった。
先輩達9人分の洗濯物。月曜日たった一日だけの休みの日に、彼と交代で洗濯をする。
全員同じ店で購入する先輩達の白い靴下は、同じメーカーで同じサイズ。それでも誰の靴下か、間違う事すら許されなかった。組み合わせを間違うと、2人でよく正座をさせられた。今思えば、その先輩達もまだまだ子供だった。
私は、水泳が早くなりたいという思いで、水泳のために親元を離れたはずなのに、なぜこのような事をしなければならないのだという不満とストレスがすさまじく、そこで生きることに必死だった。

当番制になっている様々な雑用。些細な事からいつも彼と喧嘩ばかりとなってしまう。
私は、まだ幼いぎりぎりの倫理感で、本当は彼と仲良くしたいと思っていた。
本当は助け合いたかった。しかし上手くできなかった。
それがまた自己嫌悪となる。
そのくせ目立ちたがり屋でわがままだった私。彼は先輩に可愛がられたが、私はうっとおしがられた。
毎日孤独だった。毎日ホームシックだった。
何度も後悔した。父親には日本一になるまで帰ってくるなと言われて出てきたから、帰れなかった。
寮生活がつらいばかりで嫌なのは、彼のせいだと思い込んでいた。
しかし彼も同じ気持ちだったに違いない。
昔を思い出すと、後悔と反省ばかりだ。
ただひとつ言えるのは、当時から自分はこのままじゃいけない、自分の心を大きくしなければいけない・・・というような自分自身への課題に、少し気がついていた。
だから、先輩としての倫理観、道徳心を、その後勉強した。今でもいつも思い出す。過去を恥じているからこそ、今でも、いつも勉強だと思っている。


寮生活では、朝の練習が5時から。寮からプールまでの冬の暗い道を選手達がとぼとぼ歩く。いくら厚着をしても、東京の冬の風が頬にしみる。誰も一言も話さない。ただ黙って歩くだけだ。
7時までの2時間、ボイラーの点いていない、冷たいプールで、ろくなインターバルも取らずに必死に練習する。
2時間で泳ぐ距離は大体8000メートル。
それでも苦しい朝練の後は、外に出た時に、冷たい外の風が、す〜っと入ってくる感じが、なんだか沢山の酸素が体に入ってくる感じがして最高に気持ちよかった。

学校に行くと、早朝4時半に起きて練習するヘビーな毎日のおかげで授業は眠気との戦い。気がついたら授業の終わりの号令がかかっていることも何度もあった。
夕方4時くらいに学校から帰ると午後の練習のために急いでパンなどを頬張る。
5時から練習だ。7時くらいまでの2時間、サーキットトレーニングやランニング、腕立て1000回、スクワット1000回などをこなし、ウエイトトレーニングを1時間。
8時くらいからやっとプールに飛び込む。
スクワット1000回のおかげで、クイックターンの時に壁を蹴れない。脚が笑っている。力が入らない。
午後の水中練習は10000メートルに及ぶ。
何度も気を失いそうになりながら、10時半頃まで水中練習のあと、寮に帰る。寮に着くのは11時ころだ。
冷めたボリューム満点の食事が用意されている。しかし、誰も食欲がない。
お腹は空いているのに、箸が動かないのだ。
米川先生に、ぜったいに残してはいけないと言われている寮生たち。
先輩が、私とひさし(不破央さん)に全部食べるように言い残し、自分達はほんの少し手をつけただけでそれぞれの部屋に帰る。
ひさしと私は、先輩達が残していった大量のおかずを半分ずつ分ける。そしてまた喧嘩になる。
2人で分けたものの、どちらが多いとか、少ないとか、二人とも真剣になる。ますます険悪になった。
それから部屋に帰る。寝るのは1時ころになる。そして次の日は4時半に起きてまた朝練だ。

私は彼にやさしくなかった。できなかった。そんな余裕がなかった。


30年近く前の話だ。


我が家の子供達は、幸せな食事だと思う。

我が家の今日の夕食は「鍋」だ。一般家庭用のステンレス鍋では、たぶん一番大きい鍋を使って、7人分である。
具材は、豆腐、白菜、エノキ、シイタケ、しめじ、肉団子、手羽先、豚バラ、ホタテ、しらたき、ソーセージ、おふ、きしめん・・・、まだあったかもしれない。
なかなかいい出汁が出るし、ポン酢に良く合う。
子供達も大好きだ。

あのころのつらい食事は、本当に豪華だったのに。
美味しく食べた覚えがない。つらい食事としか覚えていない。
カロリーを極限まで使い果たしてしまう選手達に採らせる食事だから、すごい内容だった。いったいどのくらいの食費だったのだろう。


私は子供に、私が経験したような厳しい中学時代など、とてもさせる気になれない。アマチュアスポーツで寮生活をするのは、辛いものだ。私の経験した寮が特別だったのかもしれないが、それでもきっと苦労すると思う。


あんな経験、させられない。何度、布団の中で涙したことか。泳ぎながらゴーグルに一杯涙を溜めていた。


今朝、末っ子の食事を見て驚いた。叱らなきゃいけないんだろうけど、笑ってしまい、おいしそうに食べる姿を見て、なぜだか、自分の過去の経験を思い出した。

左手でぺロちゃんキャンディーを舐めながら、右手でホットケーキを食べてる。

将来が実に不安な、娘である。

写真を撮っていると、子供達からリクエスト。
「ホットケーキ用のシロップと、チョコがほしい」
うん・・・。わかるわかる。シロップおいしいよねえ〜。
経費削減の折、マーガリンだけの我が家だもん。
よしっ!買い物行くか!!

経費かかるなあ〜