協力会社

無事マットレス気仙沼に到着したとNGOから連絡が入った。一安心した。

色々苦労した事もあったが、東北道が通行可能となって時点で、あとはガソリンの問題だけだった。関西からは東北に向かう事は出来ても、帰ってくる事が出来ないというのが運送会社の言い分だった。向こうでガソリンを確保できないからだ。また、ドライバー地震の食事や飲料水も必要で、ドライバーのかかる負担は大きい。無理なお願いをしているのを承知で、気仙沼行きを打診し続けたが、回答は東京までなら可能と言う回答で終わった。そこでNGOに再度相談をした所、埼玉県の川口から気仙沼へ行ってくれる車を確保したと言うのだ。これですべてが実現へ急速に向かった。
普段なら何てことない運送だったのに、交通網が遮断され、ガソリンの供給も困難になると、これほど「運ぶ」という作業が大変になるとは思わなかった。いずれにせよ、協力してくれた運送会社2社と、部下達、そして、NGOのヤマシタさん・・・・、どうもありがとうございました。

週末、福島第一原発の2号機か3号機のタービン室の床で、溜まった水に含まれていた放射能物質から被曝したという報道を見た。作業にあたった3名のうち、2名が協力会社だということだった。その協力会社の2名が被曝しとた報じられた時、何か違和感を感じた。東電の作業員は長靴を履いていたが、協力会社の2名は防護服用のくるぶしあたりまでの靴だったことが原因らしい。しかし、なぜあの放射線漏れの激しい原子炉施設で、床に溜まった水溜りの放射能濃度に不注意だったのだろう。報道されない内情があるのではないだろうか。東電と協力会社という立場の違いが、その散漫な管理に繋がったのではないだろうか。

今から14年前、私は現在の会社に中途採用で拾ってもらった。27歳までの募集にもかかわらず、30歳で採用してくれたのだが、研修先の横浜で、協力会社という存在を始めて知った。簡単に言えば仕入先の事なのだが、生産現場を委託している会社のことだ。いわば労働力を委託しているということでもある。その後配属された浜松の事業所は新設の事業所であり、何もかもが生まれたばかりだった。当然、協力会社も生まれたばかりであったのだが、当時の浜松の責任者や上司は、協力会社に信じられないほど冷たかった。冷ややかに見下したそのやり取りを見るたび、仕入先というだけでこれほど冷たい仕打ちを受けるのかと、胸が痛んだ。仕事をする上で、仕事に向かう姿勢は厳しくなければいけないだろう。しかし、当時の上司や先輩達の協力会社社員に対する接し方はそういう次元のものではなかった。蔑んだもの言いと見下すようなすべての態度に、私は自分は真似しないようにしようと思ったものだった。私は営業職だったから、彼らとは直接接する事がなかったが、それでも挨拶やちょっとした会話など、言葉遣いにも気をつけて、あいての尊厳を傷つける事のないように気をつけた。実際、その当時の先輩に、我社の協力会社に対する接し方はおかしくないだろうかと、提言したことがあったが、笑われておしまいだったし、協力会社って言ったって、所詮仕入先なんだし、気にする必要ないじゃねえかと相手にされなかった。
数年後、生産側の責任者となった時は、倫理のかけらもない昔の上司と先輩を反面教師として、他のどこの生産拠点にもないほどの本当の意味での協力会社に育て上げ、どこにもないほどの信頼関係を築けたと思っている。

あれから10年以上経ち、我社の生産現場の社員も、責任者も、世代が代わりつつある中、昔のような協力会社との付き合い方はなくなってきたと思うが、世の中の「協力会社」という立場の社員達は、現場で非常に軽んじられている傾向も多いはずだ。東電の協力会社社員の扱いはどうだったのだろうか。彼らの安全対策を軽んじたのは、日頃から染み付いた東電社員の感覚にもあったのではないだろうか。そんな気がしてならない。外には見えない、潜在的な問題が隠れている気がしてならない。まして、生命を危機に晒す現場なのだ。気付かない残酷が、あそこに存在してやしないだろうか。

とはいえ、急激に減ってきた、地震報道や原発報道。これから世間の認識は少しづつ減っていく。東北の現状を知るすべと、原発の現状を知るすベが着々と減っていく。そんな中、今日今も、あそこで不休の作業を行っているのが彼らでもある。海水を真水に切りかえて、冷却ポンプで水を循環させ、放射線漏れが完全になくなる状態にまで修復できるのだろうか。いや、やるしかない。苦労はかけるが、彼らにやってもらうしかない。
そしてこれから東電の原発に関する責任と、原子力保安院の官僚らにも、責任を問うべきだ。それはしなきゃならないだろうが、本質的な問題は、私達国民がこれから電力についてどうするか考える事だ。原発を受け入れるなら、最悪の事態を受け入れる勇気と打算が必要だ。すべての事態に耐えうる原子力発電所を作るなんて話は、何をしても絶対に死なない人間を作るみたいな話である。到底不可能なのだ。
どうしなきゃならないのかを考えるのと同時に、どういう生き方をしなければならないのかを考える時が来ているのだ。