マラソン大会

小学校の頃、毎年、マラソン大会があったのだが、5年生の時のマラソン大会は、今でも忘れられない大会だ。
私の小学校は、学校から歩いて3キロほどにある民家の少ない地域と、そこに流れる「うるい川」という川沿いの歩道を走る形で、毎年マラソン大会を行っていた。さらに、学級対抗になっていて、クラスごとで点数を積み上げ、合計点数の一番多いクラスが、総合優勝するというものもあった。
優勝者が100点で、2位が99点というように順番に点数が加算され、99番は1点という具合だ。私の学年は生徒が300人近くいる為、自分のクラスから、優勝者や、10位までに入る子供が一人でも多ければ、総合優勝できることになる。
5年生のマラソン大会の時のこと。クラスの担任の先生は、毎年ダントツで優勝している私を1位で計算していることはもちろん、マラソン大会の1ヶ月前から、2位から10位あたりまでに入れそうな子供達を早朝集め、練習させていたほど、クラスの総合優勝を真剣に目指していた。
当然私も確実に優勝しなければならない重要な役目だったが、私はスイミングクラブで朝練習をしていたので、その担任の先生主催の練習会には出なかったが、責任重大であることは重々承知していた。
1ヶ月間の練習のおかげで、クラス全体もかなりレベルが上がり、マラソン大会当日を迎えた。朝から先生は、今日はみんなでがんばって、絶対に総合優勝しようと、熱く朝の朝礼時に語り、クラスは子供なりに、全員燃えに燃えていた。
学校の校庭に集合し、マラソン大会のスタート地点まで全員で歩いて移動する。その移動の道を歩いている時の事だった。
歩道の脇には、川幅1メートルくらいのどぶ川があり、当時は蓋がなかった。私は自信満々のマラソン大会に朝からハイテンションで、友達にちょっかいを出しながら、歩道を歩いていた。
その瞬間の事。意味もなく勢いつけてジャンプした先にあったのは、川幅1メートルの川だった。水はほとんどなく、川の底に着地したのは足の裏ではなく、左の膝だった。
「イテェ!」
と膝を押さえる。ズキンズキンと痛みを感じ始め、そのうち、ジンジンしてきた。
押さえていた手を膝からはずすと、パックリと膝が切れている。だいたい5センチくらいの長さで、切り口の肉が外に飛び出し、みるみるうちに大量の血が流れえてきた。
大騒ぎのクラスメイト。担任の先生が、「何やってるのよ!見せなさい!」と怒り心頭。一度急いで学校に戻り、洗浄、消毒を行った。絆創膏を何枚も重ね貼りし、その上から包帯を巻く。
私は、必ず優勝しなければならないマラソン大会に出られなくなる事が心配で仕方がなかったが、そんな心配はなんのその、先生は、「はい、これで完了!急いでスタート地点にいくわよ!!」と私の手を引き、歩き出した。
保険の先生が後ろで、「多分縫わなければならない深さですよ!先生!」と、声をかけていたのを覚えている。
スタート地点に着いた時は、時間の関係でもうすぐにでもスタートする直前だった。少しでも前のほうの場所を確保しようとする生徒達。遅れていった私は、一番後ろに並んだ。左足の包帯のせいで、脚が曲がらない。何しろ酷い激痛が走る。
先生が、「すみよしっ!あんた、絶対に一番じゃなきゃだめなのよ!わかっているわね!」と、プレッシャーをかける。
スタートの合図で、一斉に生徒が走り出した。最初の200メートルくらいは、みんなまるでダッシュしているみたいに速い。私は慌てず集団の中に身を置く。だんだんと周りが後ろへ下がっていく。一人、二人、三人・・・・。1キロくらいを走ったあたりで、川沿いの一本道に出た。まっすぐな直線が3キロほど続く。前に50〜60人の生徒が走っていた。
激痛の膝。道路の脇で応援するそれぞれの生徒の父兄が、私の足を見て口をあんぐりと開けている。気になって脚を見た。左の膝に巻かれた真っ白な包帯は、血で真っ赤に染まり、白いハイソックスにまで到達して、ソックスまでが真っ赤に染まっていた。紅白状態の靴下はいて走る5年生。
前を走っていた生徒をごぼう抜きし、ようやくトップに立つ。川沿いの一本道を右に曲がった時には、2番目を走る生徒はあまりにも離されていた。
曲がればあとは1キロもない。ゴールが遠くに見え始めた頃、私の母が歩道脇に立っていた。何も知らない母。母の横を通りすぎる瞬間に、私が聞いた。
「前、誰もいないよねえ?」 / 「何、それあんた!」
お互いにカブって話しかけたせいで、返事も互いに得られぬまま通り過ぎる。走りながら後ろを振り返り、母親に告げた。
「ころんだ〜!」
ダントツ1位でゴールした。そして次の瞬間、担任の先生が、まだ止まってもいない私を、「すみよしっ!こっちこっち!」と呼ぶ。
誰だか知らない父兄の車に乗り込まされた。向かった先は学校近くにある「開明堂」という外科。
まだ、「はあはあ」荒い息をしたまま、病室に入る。完全に急患扱いだ。
ベッドに横になると、なぜか急に眠気が。

気がつくと、病室のベッドに横になり、左ひざに真っ白な新しい包帯が巻かれえていた。
なんと、私が出血多量で気をうしなったタイミングを見て、即効で洗浄消毒し、膝を15針縫い、輸血したらしい。
目が覚めたら、母親も父親もいた。しかしその脚で松葉杖持たされ学校へ行かせられた。
ラソン大会の結果は、見事クラスの総合優勝という最良の結果となった。松葉杖をして、膝に包帯巻いて、15針縫うほどの怪我をしながら、マラソン大会を走り、ダントツ1位の私は、圧倒的なクラスや学年のヒーローとなった。「スミケンすげえ〜」とみんなが私を取り囲む中、先生が怒る。
「すみよしっ!なんでこれからマラソン大会だって時に、ドブに落ちるのよっ!バカッ!」

今思うと、私もなかなかやる子供だが、一番すげえのは、担任の先生だ。どう考えても、こんな怪我をした生徒に、マラソンさせるなんて、考えられん。

先生は「矢崎喜代子先生」と言った。当時ですでに55歳くらいだったと思う。物凄く目が悪くて、当時のメガネのレンズの厚みは、楽に1センチはあったと思う。5年生の一年間で、校舎の窓ガラスを20枚以上割った私は、矢崎先生にいつも「はたき」の棒でおしりを叩かれたものだった。ムチみたいで凄く痛い。しかしさすがに膝を縫ったばかりの私をはたきで叩きはしなかった。そのかわり、怒りながら、頭をなでてくれた。「がんばったね〜」という言葉と一緒に。

矢崎先生は、もう随分前にお亡くなりになった。無茶な事させる先生だ。
でも、おかげで一生の思い出をくれた。
膝の跡は、もう随分薄くなった。    太ったし。