日本学生選手権の思い出

若気の至りという言葉があるが、自分にも多くの若気の至りといえる経験がある。

私は日本大学水泳部に入部した当時、通常のように日大水泳部の合宿所には入らなくて、3ヶ月間ほど、恩師のもとで練習をしていた。別に合宿所に入りたくなかったわけじゃないが、練習環境の問題もあり、たまたまそのように恩師と、日大水泳部の監督との間で取り決めたのだ。しかし、入学して2ヵ月後の6月頃に行われた日本大学中央大学の対抗戦で、日大水泳部のチームとしての存在感に圧倒され、また、感銘を受け、そして先輩、後輩の関係を垣間見て、私は水泳部の合宿所に入る決心をした。そして9月に行われる、インカレに向けて、個人競技の競泳を、チームとしての競技という新たな感覚で、合宿所生活を送り始める事になった。
日本大学水泳部は、その水泳生活と、合宿所生活のすべてを、「天皇杯」の獲得のために費やす集団だった。競泳というスポーツは個人競技である。しかし、インカレでその個人の力と成績を積み上げ、水泳部が一丸となって天皇杯を獲得するという、まるで新たなチーム競技のような、そして神聖な戦いに私は心底惚れ、心酔していた。
ところが、日大水泳部に入部した当時、私はすでに右肩が壊れていた。長距離選手としての競技生活で、右肩の腱と軟骨が剥離し、血が溜まり、一部が欠け、関節内に残っている状態だった。その為力を入れて水中ストロークすると、衝撃的な痛みが走り、ガクッと力が入らなくなる。その為、選手としての生活を、今後続けて行けるのかと、大きな不安があった。当然水中練習も出来なくなっており、主にランニングなどの心肺機能の維持の為の練習しか出来なくなっていた。半年以上水中練習が出来ない中、ついに9月になった。私は一部の個人種目には出場したが、まったく本来のストロークではなく、練習していない競技者がどれほど不様かというほど、まったく歯が立たなかった。
しかしインカレの最終日、最後の男子800mリレーの前の段階で、日大水泳部は早稲田大学水泳部と同点という状態だった。総合得点で1点でも多くなければ、当然天皇杯は獲得できない。しかるにこの最後の男子800mリレーに勝利した大学が天皇杯を授与させる事になる。しかも、4人の選手で予測されるタイムでは、早稲田大学の方が速い為、下馬評では、日大水泳部敗れたり・・・という意見が大半だった。
今までのどんなレースよりも重要なレースである。監督もコーチも、4年生も、部員も、全員、目が血走っている。完全に戦闘モードだ。100人を超す水泳部員が、汗びっしょりで日大の校歌を歌い、水上応援歌を歌い、日大節を歌う。
それほどに重要なレースに、監督が怪我人の役立たずである、私を第一泳者に起用すると言い出した。監督の言い分は、リレーのような拙戦は、住吉の勝負強さが一番だと言うのだ。そんな自信はまったくない。いや、全盛期の私なら、勝負に勝つ自信はあったかもしれない。しかし、もう厳密には1年近くまともにトレーニングしていないし、なにしろ、右肩が亜脱臼しているような状態だったのだ。
しかし言い訳が出来るような状態ではなかった。自分がやるしかない・・・そういう状況に追い込まれていた。私が第一泳者、山口さんが第二泳者、野口さんが第三泳者、そしてラストが田川だった。
男子800mリレーの、決勝メンバーが決まった。メンバーが決まった瞬間から、4人の恐怖との戦いが始まる。緊張は極限に達し、もう何も聞こえないほどだった。部員がそれぞれ声をかけに来る。「がんばれよ!」「まかせたぞ!」きっとそんな感じの言葉だったのだろうが、私にはもう何も聞こえなかった。ただただ、飛び込んだ瞬間から、動かない肩を、慎重に動かして、筋肉を緊張させ、心肺機能で、入らない肩の力を補う、そのイメージを頭の中で繰り返した。何度も何度も。そのイメージを、誰かと話すことで壊されるわけにはいかなかった。チャンスは1回しかない。失敗は許されないのだ。痛くて泳げませんなどと、死んでも言えない。そんな事になるならいっそ、死んだ方がましだ。本気でそういう状態だった。部員100人と、日本大学水泳部の多くの先輩達の想いが、天皇杯に詰まっている。故古橋先生も、日本大学水泳部の先輩だ。メンバーの4人は、お互いに励ましあう事もしない。そんな飯事(ママゴト)のような会話をする余裕はなかった。自分の責任を、どんな事があっても果たさなきゃならない。その為に、それぞれが集中していた。観客席、応援席では、決勝レースに出場する大学の部員達が、声を張り上げて応援している。みんなもう、声を出しすぎて声にならない声で、ひなるように必死だ。眉間の血管は、今にも破裂しそうなほどに。
レースは、私が1着で入り、そのまま4人全員が、予測されるタイムより1秒から2秒近く短縮し、奇跡的に逃げ切った。そして天皇杯を獲得した。
水泳は個人競技だ。私はこのインカレの前に、過去、何度も優勝したり、新記録を出したり、勝負に勝ってきた。しかし嬉しくて涙が出たことなどなかった。もちろん悔しくて涙が出た事もない。レースの結果自体には、私は冷めたものだったのかもしれない。
しかし、現役生活で、たった一度だけ、このインカレの勝利に、心から涙した。しかも、嬉しい、喜びの涙だった。日本大学水泳部に入ってよかったと、心から思える瞬間であり、チームの仲間は、今でも心の絆で繋がっている。すばらしい思い出となった。初めてのインカレ。1年のインカレは、私にとって、水泳という競技の意識を変え、勝つ喜びを教えてくれた物だった。


しかし・・・・。
4年後のインカレは、私がコーチとして迎えるインカレだった。
4年後のインカレが、また私の水泳という競技を嫌いにさせる悲しいインカレとなる。学生でコーチを引き受けることになる、教え、育てる側の苦悩と、あるレースで起こるアクシデントが、結果、その後の私の水泳への関わりを変えてしまうことになる。その後の私の選択は、まさに若気の至りであると同時に、現在の私に繋がる意味のある選択でもあったと思う。

けれど、それはまたの機会に・・・。