大学水泳部時代

大学水泳部に入部して最初の年のインカレは、それまで個人競技として自分の中に存在していた競泳というアマチュアスポーツが、チームで戦う競技でもあるという初めての経験に、大きなカルチャーショックを受け、そして、それまで経験した事のない、強烈な経験となった。先に書いたブログのように、肩の故障は深刻であり、私は2年、3年と2年間、選手としてはすでに使い物にならなくなった。2年になってからの私の水泳部での仕事は、選手として「天皇杯」獲得のために尽くす事ではなく、インカレに向けて練習する選手の為に、マネージャーの役割を担う事になった。ここでいうマネージャーとは、日本語で使用するマネージャーの事であり、マネジメントではない。要は、練習のタイム取りや、雑用を中心に仕事を行う役割である。2年生の1年間は、マネジメントではなく、マネージャーとして過ごした。3年、4年の先輩が居る中で、選手としての自分以外に、自分を表現するすべなど、まったく持っていなかった。しかし、その2年の時から、チームの練習方法や、トレーニングメニューなどに、私は大いに不満があった。私の恩師から得た水泳教育は、様々な分野において、大学水泳部のそれとはかけ離れていたから、これでいいのだろうか、これで勝てるのだろうか・・・と、毎日、モヤモヤした気持ちで過ごしていた。自分なりの理論もあった。ストロークに関する指導にも、当時のコーチや先輩の指導には疑問があった。流体力学の基礎部分だけを理解するだけでも、選手のストロークの、どこに問題があるか気がつく。しかし、当時の水泳部は、漠然とした過去の事例からでしか、指導が出来ないチームだった。
そして2年の時のインカレは、案の定負けた。天皇杯はわが大学から消え、違う大学に渡った。
私は3年になると、ひとつ上の先輩に提言した。現在日本大学の教授を務めている先輩だ。提言の内容は、練習メニューを見直すべきだという内容だった。その先輩は私の提言を聞き入れてくれ、コーチや監督に一緒になって話してくれた。今でも大好きな先輩だ。
同時に、わが水泳部に、風変わりな学生が一人、合宿所にいきなり表れ、水泳部に入れてくださいと懇願してきた。彼は秋田出身で、秋田の小さなスイミングスクールで、泳いでいた経験があると言う事だったが、当時のわが水泳部は、本質的に、日本トップクラスの学生が集まる所であり、当時の先輩は彼の願いを退け、水泳部には入れられないとつきかえした。
彼の名は、「原田長政」といった。私は先輩に掛け合った。今時、一人で合宿所に現れ、「水泳部に入れてください!」などと、実直な気持ちで入部を願う若者は珍しい。大学の部と言うのは、高校から勧誘や下打ち合わせなどがあって、入試試験に合格して、当たり前のように敷かれたレールで部に入るケースがほとんどだ。だから、選手同士、昔から試合などで顔を会わせている、知り合いが多い。しかし、彼は誰も知らない学生だった。多分、全国大会クラスの試合には出場したことがなかったのだろう。
私はぜひ、彼を入部させてあげるべきだと思った。そして当時の4年生の先輩に、彼を入れてあげるべきだとお願いした。しかし、まったく相手にしてもらえなかった。意を決し、私は監督へ直接願い出た。
石井監督は心の温かい監督だった。思いをぶつけると、快く彼を引き受けてくれた。そして監督から、4年生に長政の入部を指示し、手続きを進めてくれた。当時に監督から私はひとつの約束をされた。それは、「原田長政」を、ただ入部させるのではなく、「トップスイマーにせよ!」という約束だった。2年生の一年間、私は水泳部の練習に不満を持っていたから、ここでひとつ、奮起してやろうという気持ちになった。
長政は純粋な男だった。彼は、水泳部入部に力を貸した私を慕ってくれた。しかし困った事は、彼をトップスイマーにするという監督との約束を、どのように果たすべきかという、大きなジレンマだった。だってそんなの無理としか思えないから。ろくに練習してこなかった19歳の若者を、いまさらどうやってトップに出来ようか。
私は彼と真剣に面談した。そして、水泳に対する彼の気持ちを確認する事にした。速くなりたいのか、それともただ趣味で水泳が好きなだけなのか。それを確認する事が、すべての出発点である。

私:「長政、おまえ、速くなりたいのか?」
長政:「はい!」
私:「本当に速くなりたいのか?」
長政:「はい!もちろんです。!」
私:「でも速くなりたいって言ったって、どのくらい速くなりたいんだ?」
長政:「日本一になりたいです!」
私:「日本一??それがどれだけ大変な努力が必要かわかっているのか?」
長政:「今はわかりませんが、速くなって、一番になりたいんです!」

私は悩んだ。同時に、私自身の覚悟が必要だと言う事も知った。そして、彼とひとつだけ約束をした。
私:「長政・・・、おまえ、何があっても、どんな事でも、俺を信じられるか?」
長政:「一番になる為なら信じます!」
私:「では、俺の言う事をぜったいに聞けるか?どんな事も言うとおりにやれるか?」
長政:「やれます!」
私:「それならわかった。俺の言うとおりにしたら、絶対に日本一にしてやる!」
そうして、彼との奇妙な関係が始まった。
長政をトップにするためには、当時の水泳部の練習ではぜったいに無理だった。夏場のシーズンに向けて、もう時間もなかった。私は、部内のトラブルを最小限に抑えるために、通常の水泳部の練習には長政と共に参加し、通常の練習が終わった後、長政と二人で練習をした。
最初は先輩に毎日呼び出され、長々と文句を言われた。私は、水泳部の練習はちゃんとこなしているし、私も雑用はやっていると主張し、それ以外の時間に彼と練習する事は問題ないはずだと、食って掛かった。話は平行線だったが、私が監督と約束した事だと言うと、4年生の先輩はみんな、押し黙った。当時、一人だけ私の事を応援してくれる先輩が居た。それも先に紹介した現在の大学教授を務める先輩だ。現役時代私と同じ種目だったその先輩は、私の思い込んだら突き進んでしまう性分を、理解してくれた。そして応援してくれたのだった。

私が長政の為に組んだトレーニングメニューは、それまでの水泳部の経験から言うと、随分変ったメニューだった。そのせいで、一部の先輩や仲間や後輩から、白い目で見られた。「そんな練習で本当に速くなるのか!」と、直接文句を言ってくる先輩も居た。しかしその度、「ぜったいに速くして見せます!」と答えた。
文句を言ってくる先輩は、みんな、選手を強くするセンスなどない人ばかりだった。正式なマネージャーだとか、自分はまったく速くならないのに、後輩を厳しくすることだけに夢中だった。会社でもどこでも、必ずそういう人はいる。私はそうやって邪魔をする人の負のエネルギーと、戦いながら長政をコーチした。
監督が練習を見に来た。合同練習以外の時間で、私が彼を指導している時に、監督はフラッとプールサイドに現れ、黙って私の指導と、長政の泳ぎっぷりを観察していた。そして、いつも帰りがけに、「すみよし、がんばれよ!」と、そういって帰って行った。合宿所で「勝手な野郎」という扱いを受けても、監督の応援と、長政の進化に、私の心はビクともしなかった。長政はみるみるうちに力を付けた。
そして、短距離50mの選手として、6月の大学対抗戦でデビューを果たした。そこで見事に大会新記録で優勝し、長政はインカレの出場権を得た。

私はその実績を監督に評価され、それ以降、短距離と長距離の水泳部のコーチを務めることになった。3年生と言う学生で、コーチを務めるという、前代未聞の事態に、なかなか当時は賛同を得られなかったが、私が4年になった時には足を引っ張る先輩は卒業し、4年の仲間が、絶大な支援をしてくれた。仲間である4年の全員が、私を応援してくれた。特に私に就いてくれた、「仲川順一(通称オヤジ)」さんは、いつも、どんな時も、私の指導方法を信用し、そしてその通りに動いてくれた。
そしてそれは、4年の最後のインカレに向かって、チーム全員が一致団結した1年となる。9月の私の最後のインカレに向かって、チーム全員で突き進んだ。私は選手を抱えるプレッシャーで、何度も潰瘍になり、血を吐いたこともあった。教える立場という、「聖職」の重さと戦いながら、全員の団結力によって乗り越えた1年だった。
最後の、最後のインカレに向かって・・・・。
そしてその最後のインカレは、生涯忘れられない、辛い思い出となってしまう。コーチとして水泳部に関わっていく事もそこで終わる。
若気の至りという言葉があるが、そのインカレを境に、水泳への関わりが大きく変っていく事になる・・・・。