米さんは私が恋愛で悩んだ時、こう言った。
「いいか、人を好きになる事、人を愛すること、それらはすべて戦いやねんや!」
恋は相手との戦い。
愛は自分との戦い。
そう言って私を叱咤した。
「そもそも人を好きになるなんてのを、気持ちがいいものみたいに言っているのが気に入らん!恋も愛もすべて戦いや!」
そう言って私を叱った。
今の私はそれがわかる。でもその当時は理解できなかった。20歳やそこらの若造だったから。
自分が恋した相手が全てでなければいけないって思っていた。
だから、凄く無理をした。そもそも人の本質なんて何も理解できない歳だった。
だから、美味しいものをみると食べたくなるみたいに人に恋した。
それが今でも恥ずかしい。
愛するほどの器量も心も育っていなかった。
ただ・・・・・、初恋だけは無知だった。だって初めての高1の恋。
あれはあれで最高の時間だったと思う。
本物の恋をしたのが高校一年生の時だ。相手は埼玉県の高校生だった。水泳の大会の帰り、彼女のかぶっていた帽子を、後ろからバッと奪い去り、今度返すからって言って、会う口実を作った。
初めて彼女を見たのは、県大会の彼女の種目の召集所だった。
一切の汚れのない、満面の笑顔に、私は一目惚れした。
紆余曲折あったが、いい思い出だ。傷をつけたこともある。傷つけあったこともある。
でも私も同時の時期に、武内(妻)との出会いがあった。
初恋の彼女も、数年間の私との時間を経て、大学で違う人と出会った。
初恋は、いつのまにかそうやって薄れ、消えていった。
でも今思えば、それが必然だった。当時は気づかなかった。心がズタズタになり、寂しさと悲しさで死にたいって思う日もあった。
でも今はわかる。恋は錯覚から始まる。
わずかな何かがきっかけで、人は錯覚し、勘違いする。それが恋の始まりだ。
しかしそれでいいと思う。恋するときは皆未熟な時だから。
でも、信じる人が勝つ。これが愛だって。そう信じる人が、後から恋を愛に変えるほどに、関係を育てる。さまざまな紆余曲折を乗り越え、工夫に工夫を重ね、相手を許し、いとおしさで包み込む。
その心が愛を育む。
妻は言っていた。
あなたは私の前に、幾度となく女性を連れてきたけど、愛は育たないってわかってたわ。だって、あなたは、いつも愛していなかったもの。その人を。・・・・・というニュアンスのことを言ってた。
私は妻に救われたのだと思う。彼女が私を活かした。
競泳選手としての時間など、わずかな時間でしかなかった。実は妻の存在とその人間力に出会うために、私は自分のそれまでの時間があったのかもしれない。
妻とは結婚して十数年経つ。今でも妻の肩口や腕を見るたび、いとおしくなる。ずっとキスをしていたいと思う。それはまるで変態みたいに思うかもしれないが、何と言われてもいい。本当にそう思うのだから。綺麗な白い肌を見るたび、私は幸せだって思う。喧嘩もした。何度も。それでも、妻は今でも愛してくれているのがわかる。
きっとこれからも紆余曲折あるだろう。けれどもう、私は何が起きても本望だ。きっと彼女を愛することに変わりはないだろう。
何が起きても、彼女のために生きることに変わりはない。
なぜなら、彼女を、心から愛しているから。
自分と戦った末に勝ち取った、愛だから・・・・・・。